文化系ニートの自己実現ツールとしてのブログ(およびその限界)
ユリイカ2006年2月号 特集=ニート 新しい文学はここから始まる
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「文化系ニート」といえば、「ユリイカ」のニート特集号にて加野瀬未友氏が提唱しておられた概念ではありますが、ここでの「文化系ニート」というのは、「文化的趣味*1をもちながら、(むしろそれゆえに)社会から阻害されている人間」という意味で使わせていただきます*2。ニートである必要はありません。学生だろうと、社会人だろうと文化系ニートは存在します。そして、彼らが望む形(小説好きであれば小説家、雑誌好きであれば編集者だというような)での社会参加の可能性は本人の学歴・性向・能力等によって実質的に閉ざされている、それが文化系ニートだといえるでしょう。
え?なんだかよくわからない?でしたら、あなたが今見ていらっしゃるこのブログ、この作者がそのものずばり文化系ニートです。今日も、「素晴らしい人々」にいろいろアドバイスいただきましたよ…私は性格が捻じ曲がってるってよ。いや〜なんて素晴らしいアドバイスなんでしょう!!
…取り乱しました。前置きが長くなりましたが、今日はそんな文化系ニートとブログのお話です。
ブログのメリットといえば、
・コストゼロで(原理的には)全世界に向けて発信できる
・自分勝手にできる。=やるのも、やめるのも、更新頻度も自分で決められる
・(あくまで感覚的にだが)評価される閾値が低い。
・コミュニケーション弱者に優しい。エントリ、コメントで主に交流するため、即時的なコミュニケーションを必要とされない。
以上のような点だと思いますが、文化系ニートというのは大概はコミュニケーション弱者であり、ものぐさであり、自意識過剰です。そんな文化系ニートにブログはまさに鬼に金棒であるといえるでしょう。かくしてブロゴスフィアには文化系ニートのブログが大量に発生することになります。
さて、ユリイカで加野瀬さんが書かれていた文書もブログなどのこういったブログの利点を考慮したうえで、インターネットを利用しろというような内容*3でしたが、この先を少し考えてみると非常に憂鬱になってきます。
つまり、こういったブログを使った自己表現というのはそのほとんどにおいて金が取れない。当たり前ですが、ということは他に何らかの形でおまんまを食わせていただかないといけない訳です。ところが、先に示したとおり、文化系ニートというのは何らかの形での社会不適合者なわけです。つまり、ネットでの名声が高まるにつれ、リアル世界でのどうしょうもなさというのがどんどんギャップになってきます。そしてそれがどんどん重荷なってくる。「ネット世界であの○○*4とも親しく話しているこの俺が、なんで学校のこのクソどもに馬鹿にされねぇといけないんだ!」といってますますネット世界に入り浸る。もしくはリアルを否定しようとします。一方ではネットでは現実でもライターとして活躍されているような大カリスマブロガーもいらっしゃいます。もしくは、はぁ○ゅうのような。こういった方たちに対して、非常にアンビバレンツな感情を抱く事になります。「なんで俺だけ(ここ、強調)ユリイカに書けねぇんだよ!」というような。そういった人間がもし、自らの全てであるところのブログが潰されたら…大好きなカリスマブロガーも救いの手を差し伸べてくれなかったら…はい、テロリストの誕生です。
本当ならばブログなんかが、こういった文化系ニートをある程度のところまで引き上げてくれれば、話は早いんです。でも、多分そういった我々のエルドラドはどうやら訪れそうもない。と、すれば何とか現実のうんこサラリーマン(公務員でも何でもいい)と、ネットの(まだ好ましく、肥大した自意識を満たしてくれる)文化系ブロガーとを何とか折りあいをつけていくしかないと思います。思うんですが、我々はそこまで器用なのでしょうか?