古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

「どくだみ荘」になれない僕らは!

「喪男」は女にモテル!?: たけくまメモ

「どくだみ荘」について。しょうもないトラバ飛ばして非常に申し訳ないのですが、一つお目こぼしいただきたいわけです。
私も両親が古本屋で買ってきたどくだみ荘を読んだことがあります。小学生のころだったか。それから中学生、高校生とたまーに思い出して読んでたりした。
何かっていうと、確か、主人公(「堀ヨシオ」といいます)が今のオタクとか比較にならないほど汚なかったんだよな。デフォルトでオナニーしてたりとかっていう描写が。で、女にモテて〜とかいってて大体そこで都合よく女が出てきてちょっとエロくなるんだけど、ダメで、ちゃんちゃん。またダメ男でした〜みたいな内容。


とにかく、すぐちんぽを出すようなイメージがあります。で、それがみんなデカかったのがけっこうトラウマだったような気がする。


で、ここからが本題なんですが、竹熊さんのこちらの部分。

そして、そのブラックホールの内部は、存外に心地よいのかもしれぬ。「何者でもない存在」である堀ヨシオは、何者でもない存在であることをありのままに受け入れることによって、どこか楽しそうですらある。生きる意味などないが、生きない意味もない。向上心はないが、ホームレスになるでもない。悩んだりくよくよするが、鬱にもならない。いや鬱になるほどの知能はないのかもしれない。風俗以外の趣味がないヨシオは、オタクではない。かといってドキュンでもない。普通ドキュンは、女にもてるからだ。

 「喪」につきもののナルシシズムは、ヨシオとは無縁である。ただ、客観的にダメなだけだ。そして彼はそのダメさに無自覚のまま、等身大の「喪」を明るく生きている。それが熱い共感をうけたのだろう。


確かにその通りだと思います。ヨシオは自分が「喪」だとか「非モテ」だとかそんな認識すらなくてただ、ダメで、ダメなんだけどそのダメさを改善する努力を一切しないだけ。この白童貞的生き方はある種理想系だといえるでしょう。
ところが、今の喪男でも非モテでもD.T.でもなんでもいいんだけど、そういう存在の人々が堀ヨシオ的白童貞生活を実践できるかというとこれは結構厳しいと思います。


それは恋愛資本主義からの仕掛けという部分があります。つまり、「ダメでいる」事を許さないような。丸井に行け、電車でエルメスを探せ、みたいな。
ところが、それ以前に、私たち(ともう言っちゃうよ)はもう物心つく前に、オタクであったり、伊集院であったり、2chであったり、そういうものによって否応なく「彼岸(あちら側)にいる僕達」というのを自覚してしまうわけです。それが自ら望んだものか、それともそうさせられてしまうのかはよくわかりませんが。
そういう彼岸の住人として認識したような人間が堀ヨシオ的白童貞ライフを実践するのは難しいのではないのでしょうか。むしろ、知識を積み上げることによって自らの自意識とルサンチマンを増幅させる方向に向かいがちなのではないでしょうか。それは(いい意味で)バカであり続ける堀ヨシオとは対極に位置します。
それは多分、堀ヨシオが今生きていたらブログを書いていたかっていうと、絶対書いてない。それよりはマスかいてるだけだということなんですが。それにしても「どくだみ荘」になれない私たちはどうすればよいのでしょうか。それはもうルサンチマンを膨らませ続けるしかないのではないでしょうか。その先には何が待っているかは正直私にはわからないのだけれども、そこをなんか適当にインターネットのゆるい繋がりとかで誤魔化すしかないんじゃないですかね。