古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

アウシュビッツの運営法とその打開策について

http://www.mainichi-msn.co.jp/eye/shasetsu/news/20060923ddm005070056000c.html
自由マニアの俺が来ましたよ、と。
さて、まぁ教師の皆さん、自由が認められて良かったですね。といったところでしょうか。


でも、少し思うんですよ、
「学校ってそもそも強制収容所や軍隊みたいなところじゃなかったの?」
って。


勉強するのも、部活するのも、掃除するのも全部強制ですよね。およそ学校で行われている事は広い意味で強制であり、強制労働でしょう。やりたい人もいるしやりたくないひともいるけどやらされてる。そもそも、決まった時間に起きて気に入らない人間と毎日ずっと一緒に行動する、これは生徒の「心の自由」に対する重大な侵害なのではないのでしょうか。
私は思います。日の丸、君が代を歌わない自由だけがなぜこんなにもクローズアップされるんでしょうか。教師の心の自由だけがなぜこんなにも認められるんでしょうか。生徒が勉強しない自由や体育祭・文化祭を拒否する自由を何で認めないのか。もっとも、アウシュビッツにいるユダヤ人がナチの将校に自由を説いても聞き入れられるわけがない、といったのと同じことかもしれませんが。
ただ、ここで「日の丸・君が代賛成!大日本帝國ばんざぁぁぁい!!」みたいな小林よしのりみたいな事を言うつもりはありません。


その前に少し横道に逸れます。
現在のアウシュビッツたる学校ですが、この強制収容所は結構ピンチな訳です。
少し考えればわかる事ですが、アウシュビッツでユダヤ人がナチの将校に従っているのは逆らったら殺されるからです。別にナチ将校のカリスマ性に魅了されて従っているわけではありません。当たり前ですね。
つまり、強制収容所なり軍隊を運営するためには強制力かニンジン*1をぶら下げるかしなければまともに運営する事なんてできない。
ところが学校では教師が肉体的にも精神的にも暴力を振るってはダメ、少しでも殴ったりすればたちまち大問題になってしまうということはいまや常識です。
こういった事をことさら暴き立てたのが「正しい」存在であるところのマスコミであったのは素晴らしい皮肉だなぁと痛感している次第でございますが、ともかく、今の学校というのは多分何の強制力もニンジンもない中で運営されている軍隊や強制収容所となんら変わりがない。そんな場所が崩壊するのは当たり前だと思います。


では、どうしたらいいのかっていうのを少し妄想込みで考えてみますと、なんつうか、もう学校って勉強を教わるだけの場所にしていいんじゃねぇの?と思います。つまり、ボランティアとか道徳教育とか生活指導とかそういうのを学校で教えるのは一切やめる*2。強制収容所である事を放棄するという事です。と、するとこれは実質教育の民営化ということになるでしょう。国語とか教えるだけだったら日の丸・君が代に反対している正しい教師の皆さんよりも河合塾の講師のほうがよっぽど上手いだろうから。
(余談ですが、私は音楽とか、美術の授業って国に聞く音楽や見る絵を強制されるって事だから、自分のセンス=自分の心の自由をよっぽど侵害していると思うんですが、どうでしょうか。)
河合塾では文化祭や学園祭、ましては卒業式なんかが行われるわけがないのですから、そもそも日の丸・君が代云々といったことが起こることは一切ないわけです。


もっとも、「需要」として強制収容所を望む人たちもきっと(結構な数で)いるでしょうから、そういう人たちのためには退学なり戸塚ヨットスクールなりの強制力を働かせた形の学校を用意するわけです。もちろん他にも都立水商とか電波歌高専とか魁!男塾とかあっていい。生徒達はそういう学校を自分達で選ぶ事ができるようになってこそ真の自由なのではないのでしょうか。そして教師の人たちにできもしない事を期待するよりもとっとといろんな学校を作ってどんどん民営化させたほうがいいと思うんですが、どうでしょう。

例えば老人たちが、話題の暴力教師が腕を振るう最新の男塾で「やっぱりの伊達臣人の覇極流槍術が味わえる天挑五輪大武會編は逃せないわ」などと言っている時、若者たちはニュータイプを片手に学食で牛丼を食べているのかもしれない。

*1:目に見えるインセンティブ

*2:「美しい国」を目指している人々がとりわけこういった要素を学校で教える事を重視しているのはきっと偶然でしょうね!