「脱オタ」の政治的解釈
先ほどお伝えしたとおり、年末にかけてコミックマーケットと呼ばれるイベントに参加をしてきた次第ではありますが、その時に当たり前の事柄を確認しました。それは・・・
コスプレイヤーの人が上半身裸でボンレスハムみたいになってた
という事ではなくて、
消費ボリュームゾーンとしてのオタク層の分厚さとその多様性
です。
まぁ普通に考えて50万人以上の人々*1がいるわけです。で、この人たちがみんなお母さんが買ってきたしまむらみたいな格好をしているわけではないし、全員がパリコレみたいな格好をしているわけでもないというのは言うまでもないところです。
何が言いたいのかというと、「オタクがコミュニケーションスキル*2や服装などで劣っている」というのは神話に過ぎないのではないかと思います。
「ある特定の趣味」をもった人間がその趣味によってコミュニケーションスキルが劣る
なんてことが本当にありえるのか。しかも、オタク人口も数百万いるわけでしょう。世の中の大谷昭宏先生を初めとする先生方はそういうことをいいがちだとは思いますが、それが「赤い服を着た女性はやりたがっている」などと同じレベルの話なのではないのでしょうか。
だとしたら、「オタクから脱する=脱オタ」という用語は一体何なんでしょうか。
「脱オタク」には2つの意味があります。
・「オタクに特有の拙劣なコミュニケーションスキルを改善すること。必ずしもオタク趣味を捨てる必要はない」
・「オタク趣味を捨てること」
このうち、後者の意味であるならばそもそもそれほど問題になることではないでしょう。もちろんオタク界内部では由々しき問題でしょうが、基本的には個人の趣味を辞めたりするはなしでしょうから。問題は、前者の場合ですが前者は一体何を指しているのでしょうか。いや、前者の意味って「オタクの人たちはほとんどの場合(とわいかないまでもかなりの割合で)コミュニケーション能力が低い」という前提がないと成り立たないんですが、そんなことあるか?ということです。
もしかしたら「脱オタ」って凄く政治的に作られた言葉のような気がしています。
「オタクはダサくなければならない」
これは脱オタ、いや普通におしゃれと言ってもいいかもしれないですけど、おしゃれだとかオタクを語る人々全員が、それこそオタクはオウムだとかなんだとか言ってる人もオタク層の解放のために日夜奮闘していらっしゃる人々も含めて、全ての人々が「そういうことにしておこう」としているのではないのでしょうか。暗黙の了解として。
コミケに来ているような人も含めてみんな案外擬態して日常をやり過ごしているような気がして*3います。オタクって多分それぐらいメジャーになっているんだけど、問題はそこからすらも零れ落ちてしまう人がいるということなんだろうなぁ。私は「現実を見ろ!」なんて偉そうなことは死んでも言いたくない。