古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

記号化するポストモダン

あまり語られないことをひとつ。
実は音楽をきかなくても音楽について語ることはできる。
例えばくるりとか椎名林檎とか。彼らに関して我々は雰囲気で語ることができる。
何故か。それは彼らが高度に記号化されていて、その記号がみんなに共有されているからだ。
椎名林檎、ああアレね。」「くるり、ああアレね」「中島美嘉、ああアレね」
これでみんななんとなく通じている。


本来なら「アレ」の中身が問われるべきだという意見は正論だ。だけども、あまりそこは問われることはない。なぜなら、話を聴いている人々もうろ覚えだから。 それは仕方がない、人々の嗜好がこれほどまでに多様化してしまっているこの時代では。もちろん、この「アレ化」というのは、その対象物がそれだけメジャーであるためであるので、「アレ」は大きければ大きいほどいろんな人に届く。
でも、気を付けた方がいい、椎名林檎とくるりとスーパーカーの話しかしないような人間は。特に、評論や優越感ゲームの一種として椎名林檎を語るような人が本当に「丸の内サディスティック」を、「茜さす 帰路照らされど・・・」を聞いているのだろうか、実に疑わしい。そういう人々のそれはもっと問われてしかるべきだ。

でも実はこれは音楽の話にとどまらない。ガンダムも、涼宮なんちゃらも、ときメモも、綿矢りさも、全部「アレ」なんだ。伊集院光も、任天堂も、オタクも、サブカルも。
ずいぶん前からほとんどのものは「アレ」になっていて、みんな「アレ」を言い合って、わかったふりしてコミュニケーションしている。それはいいのだろうか、悪いのだろうか、ちょっとよくわからない。「物事の本質を・・・」とはおじいちゃんたちがよく言う言葉だろうけど、私達が何か一つでも物事の本質を見極めた事などあるのだろうか。何か一つでも物事の本質を見極めようとするならば、それには一生を賭ける覚悟がいるんじゃないか。


山形浩生の「新教養主義宣言」という本の前書きを引用する。

新教養主義宣言

新教養主義宣言

ではこれに対する手立ては一つ。「アレじゃございません」と言う事だ。同じ前提から、全然違う結論をたくさん導く事だ。だって言えるもの。みんなの議論、穴ばっかだもん。(中略)アレなんかじゃなくて、コレだってソレだって可能性はいくらだってあるんだもの。

私は「アレ」でも構わないと思う。「アレ」で繋がるというのもそれなりに時代の知恵というものなのかも知れないから。そうは思うのだけど、「アレ」ばっかりじゃつまらない。「アレ」の向こう側の世界を見てみたい。

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