古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

Zeitgeist(時代精神)

remix (リミックス) 2007年 08月号 [雑誌]

remix (リミックス) 2007年 08月号 [雑誌]

音楽だけで生活していくには、その作品を売らなきゃならない。そうなった時に、プロ意識を持つ、オリジナリティを発揮するということは誰にでも簡単にできることじゃない。要はあるカテゴリーの音楽がムーヴメントになったとして、そのいち部だけに接したリスナーが「あ、こんな感じなのか、大したことないな」と判断したとすると同カテゴリーでまとめられている人は全部そんなもんだと判断されちゃう危険がある。

野崎良太(remix2007年8月号より)


よく人は「うぇぶにーてんぜろこそあたらしいくりえいてぃびてぃのはつろだぁぁぁぁ」と言います。
一方で、「プロ」の他の人たちは「プロとアマチュアの区別をしっかりつけろ」と言いいます。
Jazztronik=野崎良太がremixで言っていたのも多分それに近いでしょう。
野崎良太が表明したような「しっかり区別しないと質的に劣ったものによって本当に優れたものが埋もれてしまう」という危惧はもっともな話です。
だがしかし、それでもなお、私のような「アーティスト」の「作品」にただ乗りさせてもらっているフリーライダーは思います。それは野崎良太であるからこそ言えるのではないか、と。要するに大手をふって「アーティスト(とかジャーナリストとか)」ないし「プロ」を名乗れる人間なんて私達が考えているよりもずっとすくないのではないのでしょうか。
前にポエムで書いた、大学のマスコミ合格講座に講師で来た人*1がいうには、私はマスコミには絶対就職できないらしい。ついこないだも同じような事を言われたので、まぁ私は一生フリーライターならぬフリーライダーでありつづけるんだろうなと思っており、このエントリはそのルサンチマン以外の何物でもないのだけれど、ただ、一つだけ言えるのは「私のしょぼさ」というにはまさに私の肩書きのなさによって日々問われているにも関わらず、彼らのしょぼさというのは決して問われることがありません。
私たちは日々見せ付けられています、「プロ」という肩書きを持っている人間のしょうもなさを。作っているもののショボさと、考え方のショボさを。端的な例を挙げてみると、オーマイとか、見て見てください。あそこにいる「元○○新聞社」の市民記者の書くエントリのどうしょうもなさを。彼らはそのアウトプットの中身を問われることなく、まさにその「肩書」によってメインストリームいや、既得権を守り続けます。
そうして私達がどれだけ「プロ」を信じようとしても「プロ」による無自覚な言葉が今日も世には溢れることになります。彼らの「肩書」の正しさは問われることなく。そして最大の問題は、彼らの「アーティストとしての能力」をちっとも尊敬できないことです。
要するにあなた達が「クリエイター」としていられるのってただ単に椅子取りゲームに勝っただけなんじゃないの?って話です。学歴があるとか、親が金持ちとかそういうので勝っただけなのではという疑問がどうしても思い浮かんでしまいます。なんとかしてくれこのルサンチマン
どうしたらいいかっていうと、たぶんそれはフリーライダー側からも「あなたはその肩書きに見合ったアウトプットをしているのですか?」と問う事であると思います。そして、それはおなじようにものを作ることによってしか為されないとは私は考えません。鳥越俊太郎大谷昭宏大先生を見ているとよくわかりますが、昔つうか今ですら、業界で椅子を一つ確保することが重要で、その後のアウトプットの質なんて大して問われてきていないわけですから。


YouTubeにアップしたり、Winny使ったりというのも「プロ」への問い掛けだと私は思います。よく「プロ」側の人で、「ステージに上がった人間だけは仲間として認めるよ」という人が胡散臭いのは、ステージに上がる人間は始めから上がると思っていることなんです。そして、その人たちはフリーライダーがどこかのタイミングでステージに上がろとする事もありうるという事をあまり考えていません。
本当に凄ければ残ると思うんです、どれだけフリーライダーの作ったものがたくさんあったとしても。
私はつくづく思います、今、このうぇぶにーてんぜろの時に至ってはじめて私達が「プロ」とやらに「貴方はその肩書きに見合ったアウトプットを出すことができていますか?」という問いをすることができるようになったと。
既得権に対して切っ先を向けることができること、それがこの時代の精神。

ツァイトガイスト

ツァイトガイスト

*1:マ○○○ハ○○でファッション誌つくってるらしいよ

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