古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

ぼく「のはなし」

仕事にへろへろになりながらですが、伊集院光の「のはなし」を読み終わりました。
最高でした。

のはなし

のはなし


あとがきにて、痴豚氏は「自分の文章の下手さにがっかりした」みたいな事を書いていらっしゃいましたが、あれを下手とか言われたら私を含め、この世の9割ぐらいの人は文章が下手という事になってしまうだろ!っていうぐらい好きな文章でした。まず何をおいても、腹を抱えて笑える文章を書ける伊集院光は物凄いと思いました。例え女の同級生に「カブトムシの臭いがする」と言われたとしても。どちらかというと「日曜日の伊集院*1」なのでナウでヤングな皆さんにも安心して読んでいただけるかと思います。

んで、まぁ大好きな訳なんですが、痴豚氏の何が最高なのかというと、あの高校中退の人がオタクもサブカルもないのに現実と折り合っているところだと思います。
多分伊集院は「サブカルチャー」の範疇に入る人ではあるのだけれど、「オタク」でも「サブカル」でもない。
サブカルチャーというのは「メインカルチャー」に対抗する存在という意味でここでは使っています。で、「オタク」や「サブカル」というのはサブカルチャーの中のまたグループ分けというイメージ。伊集院光はオタクにもサブカルにも多分属していないと思うのだけれど、それでも何とか飄々と生きていっている(成功者となった今だけではなくて、多分もっと昔から)のが素晴らしいと思いました。「オタクでもサブカルでもない」人にとっての集まる場所として非モテというのがあると私はわりとおもっているのだけど、それは多分私が相も変わらず伊集院的なノリでやっているからだと思います。


もちろん、「場所」を維持するために、旗印が必要だと思うんですよ。オタクだ、サブカルだ、非モテだ、と。
だけど、そこまでカテゴライズする必要があるのかと思うときもあります。「私はオタクです」「私はサブカルです」「私は非モテです」とやろうとしても「いやー俺は・・・」といってこぼれ落ちてしまう人は必ずいて、その人達を結果的に排除することになってしまうのではないかなと思ってしまいます。
そして、なんでもいいのだけど、旗印を掲げる事で場所を作ったり、少しでも生きやすくなればそれはそれでいいと思うのだけど、そうじゃなくて掲げた旗印に自分の行動を縛られてしまうのはつまらないな、と思います。オタク(でもなんでもいいけど)であり続けるために、こう振舞わなければならない、みたいな。


なんつうんだろ、あの日常の飄々とした感じ。
私たちはもっと飄々と淡々と、しかし絶望はしない形で生きることができる「はず」だと思っています。

*1:私の造語。痴豚氏には「テレビの伊集院(全く当たり障りのないコメントをするデブ)」、「日曜日の伊集院(「日曜日の秘密基地」で見せるようなバランス感覚に鋭く、かつわりとインテリジェンスな発言もできるパーソナリティ)、「月曜日の伊集院(笑いの神様)」の3つのモードがあるということ」