古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

ぼくわたしが考えたポジティブ教

前に少し書いた努力の話の続き。
学校の教師だとかマスメディアみたいな人はよくこんなことを言います。


・君たちはかけがえのない存在であり、望みさえすれば何にだってなれる
・努力は尊い。コツコツと努力すればいつか報われる


こういった言葉を聞くと子供の頃から大抵違和感があったんですが、今ならわかります。この二つは大嘘であると。
もちろん、社会には本音と建前というものがあり、建前には誰もがそうであってほしいと願う願望が込められているということはよくわかりますが、それにしてもこれは酷い。大嘘、かつ真逆であるわけですから。
学校の素晴らしい教職の方々は本来であればこう教えなければならないはずです。


・君たちは社会の一つのパーツに過ぎず、いつでも交換可能である
・努力しようがしまいが報われる人間もいるし報われない人間もいる


こんなことは日本に住んでいる大人の大部分はある程度は理解しているものと推測しております。ところが、こういった本音の部分はあまり表面にでることはなく、かくして万能感のみが日本社会を覆っていき、リアルでもWebでも「1ヶ月だけ思いっきり頑張れば みつお」みたいなポエムが人口に膾炙することとなります。


そもそも「努力」ってなんでしょうか?どれぐらいがんばったら努力なの?残業200時間超えたら?売上1億超えたら?ある人にとっての「努力」は他の人にとっては「努力」でもなんでもないかもしれない。


実は、私と同じ職場に私の同期の女性がいます。営業ではなく営業支援みたいな位置付けなんですが、彼女(当然20代後半でかつ総合職入社)がやっている仕事は彼女がやってくるまで一旦定年して嘱託でやっていた人の仕事です。んで、どうやら他の人からの証言等も総合するとその仕事すら満足にできていないみたい。定時から1分たりとも残業しないし、昼休み前後に職場近くのブランドショップの買い物袋ぶら下げて帰ってきてる所はなんどとなくみてるんだけど。でも、その彼女(DEEPSあたりの企画モノAVによく出てきそうな顔なんだけど)に聞いたら彼女はたぶん「私は努力してる」って言うんじゃないかな。
客観的に見ても私と同じ給料だろうし。ただ、私は断言できるけど、彼女が努力しているかなんていうことが問われることはあり得ない。その場での努力の量や能力値だけでその人のその場での価値が決まるのであればまだマシだと思います(もちろん、みんなで協力してみんなで同じだけ成果も報酬も得られるというのが一番よいことは言うまでもありません。)。問題は不平等は生まれた時からずっと存在していて、それは恐らくずっと覆ることはない、ということです。世の中には、全く努力もせず、かといって何か能力があるわけでもないんだけどバブリーに暮らしていける人は存在するし、一方でどれだけ努力しようが何しようが生きるか死ぬかぎりぎりの所を生きている人間も存在します。
私が努力を続けたとして、その結果は私たちの意思が及ぶ範囲でしかコントロールできない。例えば今日までにやらなければならない資料を夜遅くまで作ったり、プログラムを作り直したりして少しでも仕事がスムーズにいくようにすることはできるし、そうすることで仕事が上手くいく可能性は増えるでしょう。でも、それ以降のことは自分の意思ではどうにもできない。それが認められるかどうかも含めて。本当は金銭で支払うというのが一番すっきりしていると思うのだけど…。


だから努力なんていうものは他人に誇るものでもないし、他人にしろと強要するべきものでもない。やるかやらないかを自分で決めて自分で淡々とやり続けるしかない。自分が「努力」だと思うことを。