ほんとうはこわい適応社会
http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20080201#p3
前回、書いたこちらのエントリに米光先生からトラックバックをいただきました。
そこでご紹介いただいた、「ほんとはこわい「やさしさ社会」」、
- 作者: 森真一
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2008/01
- メディア: 新書
- 購入: 4人 クリック: 53回
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なんだかんだといって忙しかったので遅れてしまいましたが、読み終わりました。
これは・・・かなり面白かったです。
本の内容についてはこちらをご参照ください。
「適応」と『ほんとはこわい「やさしさ社会」』 | こどものもうそうblog
ページが見つかりません:@nifty
内容をかいつまんで書くと
・今の世の中は各人がお互いに傷つけることを極端に恐れ、傷つかないように先回りして配慮する「予防的やさしさ」の社会だ
・「予防的やさしさ」のために、みな表面上は対等であろうとするし(対等でなければならない!)、その場を楽しくするために「キャラ」や「空気を読むこと」を各人に強制する
・「やさしさ社会」ができたのは、「わたし」を「わたし」が存在する唯一の拠り所としているためだ*1
といった内容。
数時間で読めるので、是非読んでみてください。
確かに、私たちは「予防的やさしさ」の中に生きていると言えます。
そして、今が「やさしさ社会」であるなら、「予防的やさしさ」に敏感な人間はいわば「やさしさ強者」としてコミュニティ内の上位を占めるであろうということになります。
一方で、度々書いているような気もしますが、コミュニケーション能力というのは結局のところ、あるコミュニティの内部でのみ通用するルール、(かりに「ローカルルール」とでも名付けておきます)をより的確に把握し、有効に活用できる人間がコミュニケーション強者ということになります。ローカルルールというのは、完全に私の造語ですが、簡単に言うと、会社やクラスで流通する隠語の類を想像してください。ああいったものはあるコミュニティの中でだけ通用する意味があります。その他にはある他人と他人との関係だとか、会社の喫煙所のように非公式な決まり事がある場所だとか、そういったものを全て含みます。
つまり、「適応強者」(これをスクールカーストAクラスと呼んでもいいと思います)は「やさしさ強者=空気を読んだりキャラを演じたりする能力が高い」でかつ「コミュニケーション強者=ローカルルールを把握する力に長けている」ということになります。
それにしても、「対等原則」があるわりにコミュニティが不平等なのはなぜなんでしょうか。
- 作者: 橘玲
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 2007/11/28
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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橘玲が書いた経済学の入門書なんですが、その中で、ネットワーク経済学を説明する題材として使われているのが、そのものずばりいじめ問題です。
その中でネットワーク(学校や会社もネットワークの一つだろう)の特徴の一つとして挙げられているのが「フィードバック効果」、つまり「モテる人間はますますモテるようになる」というものです。そしてその逆もしかり。フィードバック効果の中心にいる人の事を「ハブ」と言います*2。
つまり、あるネットワークの中でちょっとしたきっかけで出来た差異によって生まれた「適応弱者」のレッテルを貼られた人間には「ハブ」としてネガティブな評価が加速度的に集まり続けることになるのは必然であるといえるでしょう(そして、そのネットワークから「逃げずに立ち向かう」ぐらいでは何一つ事態は変わらないということも)。一方で、「ほんとはこわい「やさしさ社会」」でも書かれていたとおり、「やさしさ社会」では極端に「みな対等でなければならない」と皆が考えています。つまり、「やさしさ社会」というのは、コミュニティ内の全員が対等でであるかを神経症的に気遣った挙句、ちょっとでも人と違っていたらフィードバック効果によって徹底的に叩かれる社会だということになります。しかも、どんなコミュニティであってもそれがネットワークである限り「ハブ」ができるのは必然であるといえます。
「普通それって地獄っていうんじゃないか」
とは私も思うのですが、地獄だろうがなんだろうがとりあえずやり過ごさないといけない。
それのための技術が適応技術ということになると思うのですが、そこで適応しすぎてしまうことが果たしてよいことなのか私にはわかりません。