古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

「すっぱい葡萄」の政治学

「すっぱい葡萄」という言葉があります。
私は基本的に、そういう状況ついてどうするべきだとは思っていないのですが、
言葉の意味としては、


「手に入れたくてたまらないのに、いくら努力しても手が届かない対象(人、物、地位、階級など)がある場合、その対象を価値の無いもの、低級で自分にふさわしくないものとみなす事であきらめ、心の平安を得る。」
すっぱい葡萄 - Wikipedia


とても便利な言葉です。


だけど、例えば(あくまで例ですよ)、
「異性には興味がないと言いつつエロゲーやってる人」
がいるとして、その人が、
・本当は異性が大好きなんだけど、(自分自身の低スペックさのため)あきらめざるを得ず、2次元で満足する事で心の平安を得る(すっぱい葡萄状態)
のか、
・本当に異性に興味のない人(すっぱくない葡萄状態)
なのかはどう見分けることができるのでしょうか。


第3者がある人はすっぱい葡萄の人なのか、すっぱくない葡萄の人とを判別する方法はあるのでしょうか。基本的に第3者がすっぱい葡萄かそうでないかを区別する事はできません。
なぜなら、「あなたはすっぱい葡萄の人ですか?」と聞いたとしても、ほとんどの人にとって「いいえ、違います」という回答以外にはありえないからです。
すっぱくない葡萄状態の人はもちろん違うと答えるでしょう。
一方で、すっぱい葡萄状態にある人も「自分がすっぱい葡萄状態にある」という事を認めたくないか、そもそもそうだと認識していないため、「いいえ、違います」と回答します。
つまり、「すっぱい葡萄」が存在するというのは証明する事ができない。
と、同時に「すっぱい葡萄」が存在しないことも証明する事ができない。


ここに、「すっぱい葡萄」という言葉がマジックワード化する理由があります。
すっぱい葡萄という言葉で指摘したい人(イソップ)は「すっぱい葡萄」が存在することを証明することはできないので、実名を挙げる事ができない。だから、「自分の内なるすっぱい葡萄像」を作りだし、それを批判する事で存在の証明とします。そしてそれに対して怒る人に対しては「あなたがそこで噴き上がるのはあなたがすっぱい葡萄だからだ」という無敵のカウンターを発動させます。「すっぱい葡萄など存在しない」ということは証明できないので、イソップ達は一種の無敵状態、ヘブンなわけです。
キツネ達がイソップに対する唯一の対策というのは、「イソップを無視する」という事です。
ただ、これにも弱点があります。つまり「反論がないという事は私の主張が正しいという事だ」という例の必殺技を発動させれば無条件でイソップの勝利になるためです。
こうして、イソップ達はミノワマンよろしく終わりなき「ヘブン」の追及に邁進できることになります。


でも、イソップ達は全く持って正しいのでしょうか。
「すっぱい葡萄」という概念の大前提の条件として、「理想の状態があり、みんながその状態になる事がいいことだ」という考えがあります。つまり、木の上にはおいしい葡萄がなっているという前提
があります(それがないと話が始まらない)。
例をあげると(あくまで例ですよ)、
エロゲーやってるキツネ達に対して、イソップ達は「キツネ達はすっぱい葡萄状態だ」といいます。
では、イソップの言うおいしい葡萄とは何なんでしょうか。
イソップ達は、「それは生身の人間と恋愛する事だよ」と大谷昭弘みたいな事を言いますが、それは本当なんでしょうか。本来、恋愛することとエロゲーやることとは全く別の問題のはずです。
恋愛ができないことが問題の本質ではなく、恋愛ができないことをエロゲーで代償してしまう事が問題なのではないでしょうか。
恋愛ができないことを問題にするのであればそれはたぶん差別だし、恋愛できないけどエロゲーやらない人っていうのも相当な数がいます。そういう人たちを全員すっぱい葡萄呼ばわりできるのでしょうか。
つまり、イソップ達が本来提示するべきおいしい葡萄とは、「エロゲーに代わる代替物」であるはずです。それがBonnie PinkなのかPharoah SandersなのかGTAなのかデスノートなのかは知りませんが、木皿泉とか純文学とかであってほしくはないな、と思います。つうか変なもん背負わされちゃって、本人達にとっても迷惑だろ。