古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

あなたが論客になる一番簡単な方法

突然だが、あなたは「論客」になりたいだろうか。信者を多数抱え、そのtwitter上での一挙手一投足が注目され、揉め事を起こし、時には収め、ネット/リアルで友人を多数作る存在、それが論客であり、我々の憧れの存在である。だが、「論客」になる事は実は意外と簡単である。今日はその方法について考えてみたい。
簡単に「論客」になる方法、それは、「受け手批判」をやる事だ。
「受け手批判」とはなんだろうか。簡単にいえば「コンテンツそのものではなく、それを消費するファンの人間性や実存を批判する事」である。


「『ときメモ』なんかやってるやつはモテないに決まってる」
AKB48はファンがキモくてイヤ」
非モテってモテない人たちの語りブームだよね」


なんていう言説にあなたは出会った事がないだろうか。
これが受け手批判である。こうした「受け手批判」はあらゆる業界における伝統的ジャンルのひとつだ。
「受け手批判」にはいくつかメリットがあるが、その中でも最大のものが「支持者を増やしやすい」という事だ。このメソッドのキモはコンテンツそのものではなく、それを消費している人々を批判していること。つまり、この「受け手像」がリアルであればある程、「こういう奴、俺のクラスにもいたよ」となって他人からの支持を受けやすい。これは厳密な作品解釈をおこなうよりも手軽に支持者を増やす事ができる。また、世の中には「○○って俺は特に興味ないけど流行ってるらしいし、気軽にどういう作品かしりたいな」と思っている忙しい人達が一定数おり、実際の作品に当たらない彼らに「○○ってこういう人達が見てる(聞いてる)んですよ」とわかりやすく提示する人、いうなればワイドショーでのピーコやドン小西のファッションチェックような役割を誰かが果たすを期待している人達もおり、そういう人達のニーズも満たす事になる。

さて、ここで「受け手批判」に必要な条件がわかってきた。それは、


・他人も共感できるリアルな「受け手像」を脳内で作る事ができる
・適度に毒舌である(読者の「○○を批判したい!」という負の感情に訴える事ができるため)


というものである。この「受け手批判」に難しい哲学書を読破したり、何冊も関連書籍を読んだりする必要はない。ついでにいえばこの「受け手批判」、受け手批判批判つまり、受け手批判をする人への批判に対する耐性も強い。それは「そうやって噴き上がるのは、あなた自身にやましい事があるからですよね?」という無敵のカウンターを発動させる事ができるからだ。そもそも、受け手批判における「受け手像」はリアルさが必要だとはいえ、実際の人物ではないので、こうしたカウンターを発動させることができるが、カウンターを恐れて受け手批判批判(ややこしいな)は軽々しく受け手批判をする事ができないのだ。「受け手批判」メソッドの応用として「読者肯定」メソッドがある。これは「○○をやってるやつらはキモい」という批判と同時に「でも、この本を読んでいるキミは大丈夫!(ないし、この本の読者はモテる)」という肯定を行う事で支持者を増やす手法である。

こうして、無敵に思われる「受け手批判」メソッド。だが、このメソッドにも残念ながら弱点はある。まず、一つ目がネットに代表される衆人環視の状態で受け手批判を行う事にリスクが伴う点。例えば、「非モテ」というタームについて考えてみるとする。あなたが、「非モテはモテない奴らの遠吠えなんだ!」という「受け手批判」を行ったとする。だが、非モテのような自意識に直結するタームにおいてでさえも「非モテとか言ってるけど実は恋人いる」とか「結婚してる」とかいう人達がゴロゴロいるわけで、そういう人達が「例外」として名乗り出てしまうと途端に議論の説得力がなくなる点。信者相手であれば「まぁ、そういう事なんでしょ」と流してくれることもあるだろうが、衆人環視の状態でこれをやるとたちまち炎上する事になる。つまり、この「受け手批判」は紙メディアのようなはなからそれに関心のある人や、わざわざ買ってくれる人向けのメディアにおいてほどほどに展開するのが吉、ということである。
もう一つは、そもそも、あなたがこうして受け手批判をするのは、ときメモでもAKBでもなんでもいいけど、こうした受け手の事が嫌いだから批判するだろう(好きなのにあえて批判する人がいたら相当ドMだろう)。だが、あなたが何年もそうういう「嫌いな人間」の生態を観察するのはかなり大変だろう。いきおい、高校や大学のような昔自分が嫌いだったクラスメートのあいつ、の話をする事になる。つまり、どういう事かというと、「受け手批判」を行うとして、その受け手像はその人の同世代のみに通用する、もっと言ってしまえば5年〜10年遅れの受け手像を批判する、というかなり恥ずかしい状態になる可能性があるのだ。
たまに、「あれれ、これ『ギルティクラウン』の受け手批判なのに『スレイヤーズ』の事なんじゃないの?(※作品名は適当です)」と邪推してしまうような文章に遭遇する事があるだろう。それを指摘されてしまうとかなり恥ずかしい。


これまで「受け手批判」メソッドのメリットとデメリットについて考察してきた。
「受け手批判」メソッドにおいて一番重要なこと、それは「ほどほどに活用する」ことである。世の中には「受け手批判」メソッドを流用した原稿が溢れている。考え方によってはナンシー関だって、ホイチョイだって伊集院光だって「受け手批判」を行っている。だから「受け手批判」を行っていることそれ自体を否定する事はよくないと思う。だが、それのみに終始した原稿はかなり見苦しい。
のりPの夫ではないが「やりすぎるなよ」、これが論客を目指すあなたへの私から送る事ができる唯一の言葉である。