古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

サブカルに残された最後の差異化ゲーム

最近、サブカル論がまた流行っているらしいのでいっちょ乗ってみようと思う。

端的にいって、サブカルとは一種のスタンスであり、信仰告白である。

では、そのスタンスとは何かといえば、差異化ゲームである。

「他人よりも優れた感性を持っている」

「他人が知らないこんなマニアックなアーティストを知ってる」

このような発言によって他人との差異を強調し、それによって勝敗を決めるゲーム、それが差異化ゲームであり、それによって駆動されるのがサブカルなのだ。つまり、「○○と俺らは違う」という事を表明すること自体がサブカルというゲームの宿命なのだ。

だが、この「○○」というのはサブカルそれ自体も含まれるのではないか?つまり、「他のサブカル」と「俺ら」は違う、という表明を行う事で差異化ゲームを行っているのだ。その「他のサブカル」のカリカチュアライズされた存在が要するに「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女」なのではないか。これは「D.T.」に代表される「劣位サブカル」が繰り返し受けてきた扱いに重なる。

そう、我々は、サブカルが「消滅」する前からずっと「いないもの」として扱われてきたのだ!

だが、当時と今が違うのは、サブカルの「信仰告白」を伴わない「サブカル的なもの」が広く受け入れられていることだ。世の中には「J-POPのボサノヴァカヴァー」から高橋歩まで、この「サブカル的なもの」は世に広く浸透している。余談だが、ビレッジバンガードに自己啓発本コーナーが置かれているのは偶然ではないと俺は思っている。つまり、今の世には大量の「他のサブカル」が存在しているのだ。これは「差異化ゲーム」の格好のまとである。

だが、ここで普通に考えれば、自分が消費するコンテンツの質・量で差異化すれば良くないか?と思わないだろうか。残念ながら現在のサブカルにおいてそれは不可能なのだ(理由はこちらこちらで書いたので繰り返さない)。

要するにそうしたコンテンツ以外の事で差異化できるとしたら、こうした「空気」で差異化するしかなくね?という話。「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女」と「ライター(クリエイター)」との差は、実のところ、よく、わからない。2人を分けているのは端的なところ「まとっている空気」でしかないのだ。

そして、この「まとっている空気」の最たるところが「人脈」や「成熟度合い」である。

「あのサブカルの○○と知り合い」とか「モテてる」「妻がいる(なのに不倫してる)」といったクソウザい内容。それこそがサブカルに残された最後の「差異化」なのだ。この差異化という判断基準の前では「カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女」と「ライター(クリエイター)」も等しいのだ。