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古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

Webライター究極の教科書(かもしれない)「ナタリーってこうなってたのか」

話題になっていた「ナタリーってこうなってたのか」をkindle版で読了。ハイライト付けまくったので内容をまとめておこうと思う。

ナタリーってこうなってたのか (YOUR BOOKS 02)

ナタリーってこうなってたのか (YOUR BOOKS 02)

 

 

本書を読み終えて感じるナタリーというサイトの凄さは2点ある。

一つは、編集方針を極めて明確な形にしたこと。

そしてもう一つは、ネット上で1次ニュース化していることである。

 

本書内で度々語られているとおり、ナタリーというサイトは「音楽誌」とその鬼子であるところの「既存Webメディア」を反面教師(ないしデキの悪い後輩)として成立している。

本書の中で何度も何度もくどいぐらいに語られているのが、

「批評しない」「全部やる」といった言葉であり、

そうした編集方針を象徴するのが冒頭で語られていた「編集者の仕事は自己表現ではない」という言葉である。

 

既存の音楽メディアであれば、ここで「ロックとは何か」「ポップとはなにか」というような概念を持ち出して編集方針とする。自分達で定義した「取り上げるべきミュージシャン像」というドグマをもとに、「取り上げるべき/取り上げるべきでない」という線引きを行う。それが当然とされていた音楽業界という、カギカッコ付きの「批評性」を求められる(と言われていた)分野でそれを成し遂げたところが凄いところである。
音楽誌という分野では、それが表面に出やすく、神学論争化しやすいのだが、その一方でどの雑誌でも「○○らしさ」というものを(普通は)大切にしようとする。昨今明らかになった通り、朝日新聞産経新聞だって、そうした「らしさ」をもっているし、最近明らかになっているとおり、ライターから編集、果ては学者の面々まで、こぞって「キャラ化」してそれを前面に押し出すということをやっている。

そこを完全に捨てている点。まずこれが凄いところである。

 

もう一つ。「批評しない」「全部やる」という編集方針の結果、ナタリーというサイトの記事が1次ニュース化している点である。

本書中に挙げられている例でいえば、「倉木麻衣がテレフォンショッキングに出演」という事実は、当然ながら新聞のラテ欄を見ればわかるだろう。だが、webで記事にならない限りは、web上での価値はゼロ。

しかも、出演するのがわかっても翌日には価値のなくなってしまう情報である。つまり、ラテ欄を見てから書いてたんじゃ遅い。

そこで、「倉木麻衣はロックじゃないから」とか「上司の決裁を取ってから」みたいな事をやっていると、こうした記事は書けない。しかも、朝日新聞のような大手メディアでは、当然こんな記事は取り上げるはずもない。最速で記事を書けば、ナタリーの記事がWeb上の1次情報になる(もちろん、その情報が信頼性があり、批評性のない記事であることが大前提ではある)。

本書内でも度々「ナタリーはキモい」みたいな事が書かれているが、新聞社のような大手メディアに対して、メディアを成立させるにはキモくなければならない。Webにおいて最も求められる速報性と網羅性を両立させたこと。それが本書でかかれたナタリーの凄さだと思う。

 

これ、書いてあることをさらっと読んだだけだと「へーそうか、じゃあウチもそうしないとな」的な感想を持ちがちだが、そう思うのとそれを実行するのとでは1000億光年ほどの距離がある*1。こうした方針を実行することはそれはもう大変なはずで、

その凄さをどう実践する仕組みについては本書の中では一部しか語れていないが、その断片のようなものは読みとれる。恐らく、

・記事制作スケジュールを全員で共有

・記事の単価制ではなく、給料制

・ライティングを外注していない(自社内でライティングを行っている)

・デスク制(記事品質のダブル・トリプルチェック)

といったところ。そうした「ナタリーらしさ」という確固とした編集方針があった上で、それを仕組み化している。そんなところがナタリーの凄さなのではないかと思う。 

 先に挙げた「編集方針」の部分はどうしようもない部分もあるが、こうした記事の品質を担保しつつスピード感をいかに作っていくか、という仕組み作りの面では非常に参考になった。その意味でWebライターにとっての究極の教科書なのかもしれない。

 

 

*1:っていう修飾語を記事内で絶対使わないのが凄いところなんだろうけど