昨日の話の続き。
文学のブンガク化*1っていうのは、90年代以降、所謂文学青年っていうのがほぼ絶滅した結果、(逆説的だが)小説等を読む人間がおしゃれ・かっこいい存在であるという主張をする者達があらわれた。ただ、ここで問題なのが、そういう主張をする人間はたいして本を読んでおらず、おすすめ作品が、辻仁成・宮台真司などの「アレな感じ」の人の著作であったりいかにも頭のよさそうな要素例・心理学、少年犯罪などのみを盛り込んだものだったりする。さらに、問題なのは彼らがそれでいっぱしの文学が語れると思い込み、他人にそれを押しつけたり、知ったかぶりをしたりすることによるイタさである。そして、一番の問題は、90年代以降の文化全体にこの傾向はいえる(この辻仁成をくるりとか、エヴァンゲリオンとかゼノギアスとかに置き換えてみよ)。と、まあここまではよろしいですね。
ま、この話自体はわりと頷けるのよ。私も常々感じていたことだし。私もこういうブンガク青年ならぬ、勘違いおしゃれキッズを潰すことに一番生きがいを感じているわけで。そういう意味ではすごいしっくりくるのよ。こういうことをいう人の気持ちがよく分かる。最悪な例えなんだけど、こういう人たちにとって辻仁成とかってう○こ味のカレーな訳。で、自分達はほんもののカレーの味を知ってる、と。周りを見るとうまいうまいってう○こ味のカレーを食ってる人がいて、俺はほんとのカレーの味を知ってるぞとさえ言ってる。ほっときゃいいんだけど、このう○こ味のカレーを食べて平気な人間がいるっていうこと自体が我慢できないくらい腹立つのよ。たださ、ちょいと考えるとさ、「辻仁成読んでる俺」っていうアピールは「レイモンド・チャンドラー読んでる俺」っていうアピールとどこが違うんだろう。作家の価値?そんなの自分の主観でしょ。つまり、この二つはアピールという意味で等価値な訳。で、この世の中、一事が万事、アピールのし合いな訳ですよ。だから結局、どれだけの人たちを説得できるのかっていう、アピール力で優劣をつけるしかないと思うのだが。
ただ、こういう世の中において重要なことは、
1:俺が食べているのはう○こ味のカレーかも知れない…と疑う程度の謙虚さは持つべき
2:他人が読む本や聴く音楽に対してわざわざ喧嘩を吹っかけるようなことはしない*2。
ってことですかね。
あと、最後に、「本とか読んでる奴がかっこいい」っていうメンタリティが私にはどうしても理解できん。私はまぁ人並みには本読んでる人ですけど、周りの人間にそんな評価を下されたことはただの1度もないし、自分でもそんなこと思ったことは1度もない。