物語希求論
id:rAdioさんからいただいたコメントを受けてのお話。
- 作者: 土田世紀,水谷修
- 出版社/メーカー: 小学館
- 発売日: 2005/09/30
- メディア: コミック
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土田世紀は私の大好きなマンガ家なのだが、この「夜回り先生」はいただけない*1。だって、登場人物が全部ヤリチンだから。
貧乏でもヤリチン、ドラッグやっててもヤリチン、暴走族でもヤリチン、いじめられてもヤリチン。ヤリチン、ヤリチン、ヤリチン…。
よく、盟友・admire-don師と話しをするのだが、どうしてヤリチン=Aクラスはそれこそドラッグみたいな不法行為を犯しても許されているのだろか?刑事上の罰は受けていても目撃!DQNが救ってくれるし、夜回り先生や母校に帰って母校から追い出されたヤンキー、だからあなたも生き抜いての人たちがそういう犯罪者達を救ってくれる。それに対してCクラスはちょっと下着ドロで即おロープ頂戴、鬼畜呼ばわりで即解雇、社会からも抹殺だ。下着ドロとドラッグ、一体どちらが社会に迷惑をかけているのだろうか?それはひとえに彼等がその行為によって物語を紡いでいるからだ。
彼等がドラッグをやったり夜回り先生との魂の交流をして物語を紡いでいる時、非モテは一人TVのブラウン管に向かっているのだ*2。最近はPCの場合も結構多いみたいだけど。
ひるがえって今回のテーマ。
おそらくrAdioさんのおっしゃっているのは
「『物語』それ自体がモテ的なものだ」
そして「物語」がモテだという考えを推し進めると、「『行動すること』それ自体ががモテ」という事になる。つまり、「何もしないのが非モテ」という事だ。
例えば非モテ層が一様に24時間テレビ的な行為を嫌ったり、ホワイトバンドのようなものを嫌うのはもちろん、偽善的なものが嫌いだという事もあるが、それはあくまで表面上の事であり、その深層には何かに向けて努力したり、行動する事を嫌う非モテの心がある*3。そしてこの考えを適用すると非モテブログなんてものは実は非モテ的だということがわかる。「意見を発信する」なんて事は非モテ的ではないのだ。
これは原理原則としては非常によくわかる。
しかし、この原理原則を実行すると多大な苦痛を伴う。
要するに暇で孤独なのだ。
山形浩生は、現代社会の問題はほとんどが暇ですることがないという事に起因していると言っていたが、それと同じ事が非モテにも当てはまる。
服を買うのもモテ
ナンパするのもモテ
友達と徒党を組むのもモテ
ネットに書き込むのもモテ
そんな事を考えていくと、どんどん非モテを暇にし、そして、非モテを孤独にさせる。
考えてもみてほしい。人間に限らずおよそ生物というものが何に時間を費やしているのかを。それは交尾=パコパコである。言うまでもなく、非モテはそこから排除された者たちなのだ。つまり、非モテは非モテになった瞬間から膨大な時間を余らせているのだ。それをガンダムとか2CHとかエロゲーとか車座での童貞会議でごまかしているというのに、それすら非モテの原理原則からすると外れている。
これでは非モテがいくら孤独に耐性があるとはいえ、その孤独と暇は非モテを押し潰すのに十分な物だ。
だから、私達はどこか、自分で妥協できる範囲で「行動」を認めている。
ナンパするのはダメだけど、サークル入るのはいいだろう
とか
友達と徒党を組むのはダメだけど、ネットで非モテブログやるのはいいだろう
とか。
そして、その範囲は自分で決めてしまうしかないと思う。
だから、非モテは連帯できないのだけど。人によってモテな行為が異なるんだから。
それでもそれで何とかかんとか己が許す限り物語を取り入れて己を誤魔化していくしかないのではないだろうか?