古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

ハチミツとサブカルとクローバー

ハチミツとクローバー 9 (クイーンズコミックス―コーラス)

ハチミツとクローバー 9 (クイーンズコミックス―コーラス)


※これは、「わたし」の物語。「わたし」のもう一つの可能性の話


むかし、むかし岐阜の山奥に一人のサブカル者がいたそうな。
彼は「ファミ通町内会」や雑音混じりに聞こえてくる伊集院光のトーク、そしてナンシー関のコラムやお笑いウルトラクイズによって自らに流れるサブカル者としての資質に目覚めた。そして断片的に入るあらゆる情報、例えばロッキンオンジャパン、例えば、駅前のでかい本屋にしか売っていないスタジオボイス、遠く名古屋のタワーレコードにあるインディーズCDや単館映画(それは田舎者で非モテの彼には天竺への道のりに思えた!)、彼に世界の真実を教えてくれたニーチェデリダ、宮台先生や小林よしのり、勇気を振り絞って入った古着屋やパルコ*1によって彼のサブカル者としての素質は順調に開花していった。彼のいる世界はどんどん広がっていくように見えた。
しかし、これは本当に彼にとって悲劇だったのだが、
彼の頭が(偏差値的な意味で)悪かった。しかも全くのバカではなく、高校に行き、中途半端に大学にも行けるぐらいの。
そして同じ三流大学でも彼は東京の大学ではなく、地元の大学を選んだ。理由は今となってはよくわからない。ただ、彼は故郷から出たくなかったのだろう。


そして、彼の世界はもう広がらなくなった。それどころか彼の世界はゆっくりと閉じていった。
彼の周りにはユリイカライトノベルを読んで聞かせてくれる女の子もカヒミカリィみたいなウィスパーボイスの女の子もいない。
彼の愛読誌、「mini」(もしくは「PS」)のストリートモデルのような女の子はましてやいるはずもない。
彼の周りにはイモ臭く、日焼けして四六時中名古屋まきをしながらマーサ21*2に入り浸っているような、そんな女しかいない。
彼にはサブカルを語り合う男友達すらいない。なぜ彼らは椎名林檎の素晴らしさを理解しようとしないのだろう、フルカワミキの素晴らしさを理解しようとしないのだろう、彼には本当に不思議だったし、彼自身そういった人を探そうともしなかった。


そして、彼の友人はインターネットだけになった。


そこでは彼は「何者か」になれた。ひとかどの人物になれた。閉じた現実の世界の事も忘れられた。彼の人生の「先
」について考えなくても済んだ。みんな優しかった。

ハチミツとクローバーも、サブカルサブカルしていてもうサブカル者のエルドラド・ユートピアを描いた作品なんだけども、一方で田舎で「閉じていく」イメージがあって、田舎者のサブカル者(笑)にとってはとても分かる話だ。
たとえば、花本はぐみが田舎で祖母と暮らしていた話とか。
だいたい、ハチミツとクローバーは東京でこそ成立している話であって岐阜でだったら無理だという前提がある。あの作品の一体、何人が岐阜で「普通の人」として生きていけるのだろうか?
そしてあの話の登場人物のほとんどは地方出身者。そこがまた素晴らしいのだけども。いわば田舎から逃げてきた話なのかなと思う。彼らにとって田舎というのはたまに遊びに行ったり、 盆暮れ正月に少し遊びに行くところなんだろうなと思う。なんで東京でなきゃだめなのか、というのは恐らくなんでシリコンバレーに世界を代表するコンピューターメーカーが集まっているのかとか、そういうことと同じ種類の問題だとは思うんだけど、ともかく、東京しかだめ、だと。
一方で、インターネットやらテレビやら雑誌やらでサブカル者としての目は否応なく見開かれていくわけでしょう。それこそ今日やってる「下北サンデーズ」みたく。
今日もどこかの田舎の高校生はハチミツとクローバーの単行本買って胸をきゅんきゅん言わせているんだ。
そして、私みたいな田舎出身のサブカル者にして最上最低のサブカルバカブロガーにだって原田理花さんに身悶える権利があるはずだ!
もっとも、東京にしかサブカルがないなんて話ではなくて、仙台には仙台の、大阪には大阪のアンダーグラウンドなサブカルチャーというものがあることは了解している(たとえば、FreeTempo=半沢武志という全国的に有名なDJがいるんだけど、彼は仙台を拠点にしている。あとはそれこそ大阪の銭ゲバとか)。それでも彼の世界は閉じていった。たぶん彼がそれを味わうためには非モテすぎたから。

*1:岐阜パルコはもうつぶれたけど

*2:岐阜近郊にある大型ショッピングセンター