非モテを救ってくれたマルクスへ、非モテを救ってくれたボーヴォワールへ
↓こことか
http://www.absoluteweb.jp/ohno/
↓ここ
http://d.hatena.ne.jp/furukatsu/
を読んで思った事。
結局非モテにとっての解放の福音がこういうものだと思うと少しがっかりします。
http://d.hatena.ne.jp/kusamisusa/20061105/p1
もちろん、私は草実スサさんの言うとおり「非モテを語る権利」は誰にだってあるとは思います。それは多分非モテ云々という以前の話だとは思うけれど。
しかし、それでも私はがっかりしています。結局こういうものなのだったのか、と。
非モテが「いつも」の「弱者」として組み込まれる事への違和感はすでに先日述べたとおりです。*1
私はバカというか、非常に能天気なところがあるというのは全く自覚していたわけなんですが、いわゆる「非モテ」というものは敗北を前提としているからこそ既存の弱者の枠組みにとらわれることなく、弱者に生きる術を与えることができる可能性があると思っていました。もっとも、それに何の根拠もなかったんだけど。
私は自分達が楽しい事*2をしてわいわいきゃっきゃっとやっていれば、それだけで我々を足蹴にし続ける「素晴らしい人々*3」へのカウンターになっていると思っていました。例えウェブでも「虫けら」が集まるはてな村であってもそういう場所をすこしでも確保できる事が、それがほんの少しでも「非もて」と呼ばれる人々の現実の日々の辛さの一服の清涼剤になれば*4、と思っていました。
それがそれほどまでに分不相応な望みであるかは私にはよくわからないのだけれど、こんなことを能天気に考えていた私が甘かったんだと思います。
多分非モテ論壇(?)の中でもこんなバカな事を考えているのは私だけだったんでしょうね。
我々は結局与えられる神話にすがるしかないのでしょうね。
どこか静かで気持ちのいい所を散歩しながら
大切な事を語り合う事だってできるんだ
例えば愛についてだとか 法律や貧困についてね
そして こういうものが僕を苦しめる
The Smiths「The Queen Is Dead」