古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

非モテ・フューチャー―ポストテキストサイトの童貞力―

奇刊クリルタイ2.0でばるぼらさん、加野瀬さんへインタビューをしました。

ばるぼら となると、インターネットでいう非モテっていうのは文化系の中でモテない人たちだと。

──そういう人たちが、インターネットで表現をしようとする時に、じゃあ、非モテを名乗ろうという人たちもいると思うんですが。

ばるぼら そこはやっぱり、芸に戻さなくてはいけないという。

──それはテキストサイトの頃のような……

ばるぼら 頃のようなものかもしれないし、今の文法で書けるものかもしれないけれど。まずは自分を相対化するべきなんじゃないかなぁ。非モテをネタにできないっていうのは、非モテをバカにすることが自分をバカにしていることにもなるからでしょう。

──相対化、ですか。

ばるぼら 非モテと自分を一体化させて、アイデンティティにしている。それを外部化して芸にしないと。それをやらないと何をやっても無理だと思う。

──そうか、自分自身が非モテというものにこだわりがある以上、それを使って何かをやるということはできないということですか。

ばるぼら 相当ムリですね。

──そうだったのか・・・。

ばるぼら 何が作れるんだろう。例えば、ワタシが非モテをアイデンティティにしてたとして、それを音楽で表現すると……これはもう芸なんじゃないの? これはもうアイデンティティじゃなくなるんじゃないかな、どうなんだろう。そのきっかけを超えるのは割と簡単なんじゃないかな。

──確かに……。

ばるぼら 音楽が無理なら詩集を発表すれば?

──スミスとかそういう……

ばるぼら 「しろはた」のアフィリエイトってスミス張ってあったよね。それは敵じゃなくていいんだ?って気はしたけど。

──スミスはでも非モテだと思いますけどね、自分は。

ばるぼら でもあれは売れまくって共感されまくってるわけじゃん。

──だからその、なんだろう。伊集院光の最初の話に戻ってしまうかもしれないんですが、要は、射程が広い非モテ問題って事ですね。みんなに「俺たちのだ」っていわれてしまう非モテ問題ですね。元々、真の非モテっていうのはアパートの中にいるべきだという。

ばるぼら そんなことを言い出したら、真のおたくも真の腐女子も、絶対表には出てこないわけで。結局我々は語られたものの中でしか語れない。だからその問題はとりあえずほっとくしかないんじゃないかな。看破したいならフィールドワークしないと。一人一人取材して。

加野瀬 本当は自分の事を知ってもらいたいだけだから他人のことは別にどうでもいいんだよね。

ばるぼら だから、非モテというもので何か言いたいんだったら、そのまま言うんじゃなくて、音楽とか何か迂回した表現で成功するしかないよね。

加野瀬 でもそれってより苦しいような気がするんだよなぁ。

ばるぼら 結局、芸、外部化するしかないんだよ。そのまんま主張しても何も変わらないでしょうし、ウザイから、見苦しいから!


上記引用部分にも書きましたが、非モテをコンテンツとして流通させようとしたその時に、外部化しなければいけないというような話が出ていました。それはまぁその通りだと思う一方、それをやった瞬間に非モテというのは「個人的かつユニークなもの」から「普遍的かつ当たり前なもの」になってしまうのではないかな、と思います。


つまり、「非モテ、あぁ、ああいう人」でしょ、という。


考えてみれば伝統的非モテ、つまり伊集院光の深夜ラジオで展開されている童貞像というのはコンテンツとして流通するだけの広さがある一方で、「典型的童貞像」というものを作り上げました。つまり、オナニーして、中二病で、内弁慶で・・・という。ところが、「典型的童貞像」ができてしまったおかげで「個人の情念」というものは排除されてしまいました。もちろん、「女性の非モテ」もそこから排除され、「シャレにならないもの」となってしまいました。
だから私はインターネットという公的でありながら私的な空間で「非モテ」が生まれたことは必然だと思っています。つまり、今の非モテブログというのは「個人の情念」がこれ以上ないほど表明されている一方で、誰の目にも触れられる可能性があるという意味で。そして恐らく私達はもう伝統的非モテの世界には戻れません。


そういった中でコンテンツとして流通できるような外部化された非モテ論として論じようとした時、途端にそれは「普通のもの」になってしまいます。考えてみればモテないとかシャカイから疎外されているというルサンチマンは物を作るうえで非常にありがちなストーリーラインであり自意識のありようです。あの浜崎あゆみ大先生ですら「シャカイから疎外され」ていたらしいのだから。
もちろん、非モテをコンテンツたらんとして広く流通させるのは正しいし、そうするべきだと私は思うのですが、その一方でその個人の情念とでも言うべきものを記憶しておくべきだと思います。
その意味で非モテは今の通りインターネットでぐじぐじ言っているべきだし、それしかできないのだと思います。
問題はそれではダメだと言い出す人がいることです。そしてその人たちが指し示すエルドラドがロフトプラスワンTVタックルである、という事です。そしてそれはまさにだめ連が通ってきた道でもあります。