古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

hashigotanと公と私

はしごたんの話である。賢明なる読者諸兄におかれては、hashigotanが巻き起こしている一大ムーブメントについてはすでにご存じだと思われるので、それについて少し書きたいと思う。
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本論に入る前に書いておかなければならないことがある。それは、基本的に私のhashigotanにたいしての評価は2006-10-15 - Welcome To Madchesterのころから何も変わっていないということだ。だから、彼女は「そういう人間だ」ということに私の中ではなっている。hashigotanネゲットなるか、という現在進行中の話にはあまり興味はないのだが、前の暴言事件については非常に興味深い。
hashigotanについて書く前に私が結構前から考えていたことを書く。

  • ブログは公か私か

私が考えていたこと、それはネットは公と私のどちらか、ということだ。
言い換えると人はなぜネットで「私的に」振る舞えるか、という問題だ。


例えば、「俺たちのリアル」と称して寝言ポエムを書く人がいる。私自身がポエムの作者であるため、そう振る舞う心情は理解できる。何故か、それは素人は基本的に「誰も見ていない」前提で書くからだ。米光一成先生の言うところの「3つの距離*1」のうち「自分」しか考えられないということだ。そしてそれは素人であれば当然であると私は思う。最初から「世界(不特定多数)」に向けた言葉が書ける人間だったらブログなんて書く必要はなく、ライターでも小説家でもなればいいと思う。

何が言いたいかというと、アクセス制限をかけなければ世界中のだれからでも見られる可能性のあるブログは公的な空間なのは大前提だと思うのだけど、ある種の人にとっては限りなく私に近い公的空間だ。
つまり素人のブログというのは田舎の公道みたいなものだ。東京のど真ん中で立ちションするのは確実におポリス沙汰だが、岐阜の田舎でそれをやるのはまぁアリだと思う(厳密には×なんだけど、社会通念として)。
それ自体は客観的には別によいことでも悪いことでもない。
「好きか嫌いか」というまさに私的な感覚によって、その善悪は決まる。

  • 公と私とキャラ売り

hashigotanの吐く言葉は「私的」だ。つまり、彼女の中では自分の部屋で話している感覚とブログを更新する感覚は同じなのだと思う。だからこそ基本的に彼女は(Masaoさんのような)同じように「私的」な思いをぶつけてくれる人に共感するし、彼女に特有なのだが、ありもしないブロガー同士の人間関係を邪推したり、それをもって「わたし派か月へのはしご派」か他人に選択を迫ったりする。
つまり、公だとか倫理に反しているから批判するとかいう考え方を彼女はまったくしていない。子供が生まれたことは彼女の好き嫌いでは嫌いだから批判をする。ブログで愛を告白するのは彼女の好き嫌いでは好きにあたるからそれを行う。そういう人に公共の論理を説いても全く意味のないことだ。彼女は自分は家の中にいると思っているのだから。

だけど、ここが難しいところで、キャラ売りとして彼女は「私的な語り」を芸として公的に流通させている。つまり「そういうことをする人」だというコモンセンスができてしまっている(半径ワンクリック以内とはいえ)。それは要するに、自分の恥ずかしささえなければどれだけでもブロガーは私的に振る舞えるということだ。私的にふるまい続けることで人にそれを認めさせることさえできる。とはいえ、今回の一件にしてもhashigotanはいかにもな感じを見せておいて、実は決定的なカタストロフを避けるべく振る舞っているということは指摘しておいてもよいだろう。


私的に振る舞うことそれ自体に好き嫌いはあっても善悪はない。
もっとも、hashigotanの場合、自分の私的な言動は100%肯定するが、他人の(hashigotanを批判する)それに対しては100%否定をするのが問題なのだが。


私は思うのだけど、hashigotanのような私的な言葉がはてな界隈という小さいクラスタであってもコンテンツとして流通させることができること、それがまさにwebでありブログではないかと。ただ、そういう人にどうやって倫理的な行動を取らせることができるか(誰だって誰彼かまわず八つ当たりしているのを見るのはそんなに気分が良いものではないだろう)、つまり田舎の公道でどうやって交通法規を守らせるよう仕向けて行くか、それが問題なのではないか。それにはまぁ煽り返すというのは意外と有用な戦術なのではないかと私は思う。

*1:コンテンツには1:自分2:数人の友達3:世界 の3つの距離が存在し、それぞれ書かれる言葉も違うという考え方