古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

「適応」の結局のところ

適応、といえばid:p_shirokumaさんを皆さん想起されるのではないかと思うので、私がこういう事を書いてもいいものかと思いましたが、少し思った所を。
ようするに、「適応」ってよくわかりません。


・服を買ったり、おしゃれをすること
・コミュニケーション能力を高めること(そもそも、「コミュニケーション能力」ってなんだ?)
・自意識を分相応に抑えること


この辺りは所謂「適応」のための活動であるといえるでしょう。
それで、思うんですが、「適応」の具体的な技術って自分がどこのコミュニティに属しているかによって違くないか?ということです。
ファッションの例で言うと、例えば大学生と社会人とでは推奨される「望ましいファッション=適応の結果」は違ってきます。同様にコミュニケーションの様式(癖と言ってもいい)は大学生と社会人とでは違います。
というより、仕事している方ならわかりますが、会社によってコミュニケーションの様式なんていうものは全く違います(これをオブラートに包んだ言い方だと「社風」という)。どのミュージシャンか、例えば朝河蘭を見ながら適当に聞いたミスチルかフジロックで号泣しながら聞いたCUREかどっちを「好きなアーティスト」として挙げるかなんていう命題よりはずっとこのコミュニケーションの様式をいかに捉えるかのほうが会社では大切だったりします。
そして、そのコミュニティというのは無数にあるわけですが、一つのコミュニティに適応すればするほど、別のコミュニティに適応するのは難しくなります。つまり、Aコミュニティでの最適解は別のBコミュニティでもそうだとは限らないということです。
その意味で、いわゆるCクラス、いわゆるオタク、いわゆる文化系というのはかなり分が悪いのは、それが「固有名詞の共有」を前提にしているコミュニティだからでしょう。
つまり、ごく単純に言うと、CUREだろうがNUBERGIRLだろうが涼宮ハルヒなんていうのは本当は誰も知らないんだけど(涼宮ハヒルなら私も知っている)、知っていることを前提にしたコミュニケーションしかできないということなんだろうと思います。
そこら辺の前提をすべて踏まえた上でid:p_shirokumaさんはご自身のサイトに「汎用適応技術研究」とつけていらっしゃるのではないかと私などは邪推するわけですが、それでも私は各個人がどういうコミュニティに今いて、今後どこに適応していきたいか、というのによって「適応」って全然違うよね、と思うわけです。
そこで思うのが「コミュニティ」の最大公約数としての「世間」です。
「とりあえずこの辺」というのが昔は、あった。
ところが、今ほど「世間」の存在やその価値に疑問符が付けられ「個性的である」ことがもてはやされた時はありません。
つまり、「適応技術」の迷走はここに始まったのではないのでしょうか。