古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

Time Is Running Out

http://d.hatena.ne.jp/araignet/20080119/1200679224
http://d.hatena.ne.jp/heartless00/20080122/1201025248


この辺読んで思ったことメモ。
あまり指摘されないことだけど基本的に、消費形態(アティチュードといってもいい)としての「オタク」や「サブカル」と消費されるコンテンツとしての「オタク」、「サブカル」とは違うということです(以後、このエントリでオタク、サブカルといった場合には消費形態としてのそれを指し、コンテンツとしてのそれはオタクコンテンツ、サブカルコンテンツと書くこととします。)。
サブカルとはつまり、「サブカルらしさ」の事です。
「サブカルらしさ」とは何かということはものすごい大命題ではある(実は、「サブカル(サブカルチャーではない!)とは何か」という命題に対して回答したものはないのでは?)のですが、さしあたりサブカルらしさというのはアンチメジャーであるし、政治的なものであるし、多分モテてなんぼの世界だろう、ぐらいの解釈でとどめておきましょう。
つまり、シネマライズでやっているような雰囲気だけを楽しむような映画であっても伊集院光深夜の馬鹿力であってもなんであろうとオタク的であり、サブカル的であると考えられます。解釈の仕方によって。
だがあなたがコンテンツをどう消費するか、ということはオタクか、サブカルか、どちらかしかあり得ませんでした。


一番初め、アニメというのは子供か、オタクしか見ませんでした。
所謂サブカルも含めた世の人々からも「アニメなんていい年こいてみるもんじゃない」と言われたのです。
でも、しばらくして世間一般にサブカルといわれた人たちもアニメを見るようになりました。
それは、サブカルたちがアニメの中にサブカルを見出したからでした。
まるで、クラブジャズ黎明期に「踊れない」ジャズにダンスを見出したDJたちのように。
当時のサブカルにとってのアニメというのは「見ていいもの」と「見てはいけないもの」に分かれていました。前者の代表がAKIRAなどのいわゆるジャパニメーションであり、後者の代表が…具体名がわかんないけど、多分皆さんが想像していらっしゃるものと同じ作品です。
「見てはいけない」アニメが見てはいけないのは「サブカルらしさ」から外れているためです。
つまり作品中からサブカルを見出すことができない。
ところが、今若い人で、そんなことを言っている人は誰もいません。
つまり「見ていいもの」と「見てはいけないもの」を区別すること自体が「古く」なっています。
ちなみに、「古くなる」事はサブカルが最も嫌うことであることには論を待たないでしょう。
オタクにしても、サブカルにしても「らしさ」を語ること自体が時代遅れになってしまっています。


らき☆すただろうが、椎名林檎だろうが、バトルズだろうがガンダムだろうがなんだろうが、それを自由に組み合わせ、かつ自由に解釈する。それが、時代のありようであるのではないのでしょうか。ロッキングオンの語る「ロックらしさ」が陳腐でしかないように、昔の世代が語る「オタクらしさ」「サブカルらしさ」なんてものはウザいもの以外の何物でもない。