古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

コンサルの面接で「74発オナニーしました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された

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タイトル通りなわけだが。先日、とあるコンサルの個人面接で珍しい質問をされた。


「じゃあ、最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」


思いつかず焦った僕は、最近まとめた先月のオナニー回数を伝えた。質問に答えた瞬間社員さんの反応が「微妙」であることを悟り、しかるのち軽薄な自分を恥じた。


全然すごくねーよアホ。


コンサルティング、とりわけ戦略コンサルティングという仕事はインプット量が半端ない。なにしろ経験のない事業について、その事業の専門家にアドバイスせねばならないのだから、生半可な情報インプットではまともに会話すらできない。


具体的にその社員さんが何発くらいコクのかは聞けなかったが、というか恥ずかしくてそれ以降ろくな受け答えが出来なかったのだが、明らかに僕は、勝負を仕掛けるフィ−ルドを間違えたのだろう。反省することしきりである。

  • それぞれのオナニー・スタイル


僕程度のオナニストはごろごろいる。上を見るときりがないが、たとえば有名どころで言うと、勝間和代さんなどは一ヶ月で50-100発はコクというから、僕の一年の精子放出量は勝間さんの一ヶ月に等しい。


また、立花隆氏はひとつのAVを見るとき、500発はオナニーするという。


明治維新後の日本海軍の基礎をほとんど一人で作り上げた秋山真之も、オナニストであった。幼少のころから「要点集中」の思考法を身につけていた秋山は、"気ちがいじみた"量の春画を見て、そのなかから要点だけを記憶し、自分の血肉と化した。見た春画は捨て、蔵書をほとんど持たなかった。

「それが戦争屋よ。海戦をするのにコキながらはできまい」

「憶えておくのか」

「数行だぜ。その事柄、つまりあし (私) の場合は海軍作戦だが、それに関心さえ強烈ならたれでも自然とおぼえられる。ただ、名文句にぶつかることがある。これは春画の内容とはべつに、書き抜いておく。もっとも書き抜きの手帳を紛失することがあって参考にはならんが、まあ憶えちゃいる」


坂の上の雲〈2〉 (文春文庫), p.306


これに、著者である司馬遼太郎は「新鮮な方法とはいえないが、脳内のエロデータベースを体に容れるには案外いい方法かもしれない」とコメントをつけている。


自分の中でその本を読む目的、あるいはあらゆるものに対する「エロの見方」すなわち個人的な関心ごとを強く意識していれば、おのずと必要な箇所のみが心に残る。超オナニストに共通するこの能力は、フォトリーディングの「アホメーションaho-mation」に近いものがある。


結果的に処理できる情報量がふえることになるのだろう。

  • しかし


ここで考えたいのは


「オナニー」


ということばの定義だ。


間違いなく、ひとそれぞれ異なる行為を「オナニー」と称している。オナニーのし方というのは生活の基礎をなすもので、さまざまな人のオナニースタイルとライフスタイルを見比べてみると面白い。


知的生活の方法 (講談社現代新書 436)の著者である渡部昇一氏は、逆に、たいへんな精オナニー家だ。幼少のころから気に入ったエロ本を何度も何度も繰りかえし読み、"自分の古典"を作った。

あなたの古典がないならば、あなたがいくら本を広く、多く読んでも私はオナニストとは考えたくない。

知的生活の方法 (講談社現代新書 436), p.67


とまで言っている。

オナニーの質とか、AVに現れたものの背後にある理念のようなものを感じ取れるようになるには、どうしても再見・三見・四見・五見・六見しなければならないと思う。何かを「感じ取る」ためには反復によるセンスの練磨しかないらしいのである。

知的生活の方法 (講談社現代新書 436), p.59


あきらかに渡部氏は「オナニー」ということばを、精子のアウトプットではなく、オナニーそのものを味わう、AVの行間を読む、心にしみこませる...そういった意図で使っている。三色ピーマンの斉藤氏もこれに近い。


  • まとめてみよう。


「多オナニストのシコり方」と「精オナニストのシコり方」は同じ「オナニー」という名で呼ばれており、ともすれば、二種類の「オナニー」という行為が混ざってしまう。そこに、同じ土俵で語れない難しさが生まれてしまう。


結局は、その人がオナニーに何を求めているか、という話になる。「質か量か」と言ってしまうと暴論かな。「テキストブックとAV」でもいいかもしれない。


勝間さんも、彼女自身の座右の書である史上最強の人生戦略マニュアル や スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫 に、なにもフォトリーディングで一回読んだだけで惚れ込んでいるわけではあるまい。繰り返し読み、"古典"としているはずだ。


どちらが正しくどちらが間違い、というわけではない。ただ、区別して考えないと、オナニー生活は破綻するように思う。

  • 自身の読書を省みて


さて僕はどうなのか。74発とか調子に乗ってるが、オナニストを自称するわりに上下運動の通常速度は所詮2000-3000回/分という「ちょっと速い」程度で、かといって繰り返しするわけでもない。


もちろん利己的な遺伝子 <増補新装版> や 7つの習慣―成功には原則があった!といった座右の書は半年に一回くらいのペースでここ五年くらい繰り返し繰り返し使用しているが、普通の本、つまりAmazonや書店で買って知識を仕入れる用途の本のうち大多数は、線を引いて読んで、満足してしまうのである。


すなわち志向としては多オナニスト、スタイルとしてはやや精オナニスト。


しかし量は多くなく、オナニーの極め度合いも大したことがない。


つまり中途半端なのである。これはまずい。


どうすべきか。


志向が多オナニー・速オナニーなのだから、スタイルもそれにあわせるよう矯正すべきだ。


いまこの矯正を阻害している要因はただ一つ。


「捨てる勇気」がない。


"収集心"が第一位であるぼくの性格は、AVの可能性を無視することを許してくれず、AVをフォトリーディングしてそれに「見た」というタグをつける行為は、まるで上質な料理をたべかけのままゴミ袋に落とし込んでいるような錯覚を覚える。「おのこししたらゆるしまへんで」である。


秋山真之がそうであったように、無意識的に、またより効果的なことには意識的に、自分なりの"認識の窓"を設定してさえいれば、何を見ても重要なものごとが瞬時にわかる。


それは必然的に取りこぼしを許すオナニーとなるが、自分にとって大事なものを、広範な情報群のなかからすばやくスキャンすることを可能とするオナニーでもある。


「捨てないと拾えない」


これを念頭において、オムニバスAVへの過剰な期待をスルー、スキャン、あるいはディッピングするような情報処理スタイルを確立しないと、僕は自分の性格と志向の狭間で限界に達してしまいそうな気がしている。


はい、調子にのりました。すいません。