古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

「非モテ」とは結局何で、どこへ行ったのか?


http://d.hatena.ne.jp/p_shirokuma/20091223/p1
id:p_shirokuma氏から、「奇刊クリルタイ」に関してコメントをいただきました。非常に示唆的なエントリなので、これに応えつつ、「奇刊クリルタイ4.0」の補足エントリとします。

  • はじめに、重大な事実誤認の指摘

『奇刊クリルタイ』という小規模な同人グループながら、今回は速水健朗さんや森岡正博さんらをゲストとして招くなど、頑張っているようだ。


クソタイは小規模な同人グループではなく木っ端同人誌です。また、そういった木端同人誌にもかかわらずインタビューを快諾頂いた速水氏(id:gotanda6)、森岡教授(id:kanjinai)には改めて感謝を。

「奇刊クリルタイ4.0」における基本的な設計思想は、「非モテ」とは一種のバズワードである、という事です。バズワード、つまり、語る人や時期によって何とでも語れる用語である、という認識ですね。バズワードだからこそ「非モテ」という議論がある程度大きく、一般化したというのが「クリルタイ4.0」での非モテ議論の認識です。「語る人や時期によって何とでも語れる」という事は言及するハードルが極めて低いという事でもあるからです。id:p_shirokuma氏の当該エントリでは「非モテ」というアイデンティティが強固に存在していた、というニュアンスがありますが、それは少し違うように思います。「非モテらしさ」は当時も今も極めて曖昧な形でしか存在しておらず、要するに、各人が勝手に語りたい事を語っていたように思います。それでも、「非モテ」を語る事を自らのWeb上でのアイデンティティとする事ができたのは、まさに「非モテ論壇」の存在、「非モテを中心に語るコミュニティ」が存在していたためであるように思います。つまり、誰でも「非モテ*1」を語る事によって、「非モテ論壇」に参加する事ができ、当該のコミュニティに参加しているという事を自らのアイデンティティとする事ができた。私見では、そういった図式が成立していたのは、2003年から2007年ごろまでであるように思います。
非モテ」という言葉の持つ定義の曖昧な部分は「議論が進まない」というような文脈で通常、否定的に語られがちでしたが、「クリルタイ4.0」においては、こうした非モテバズワード性をわりと肯定的にとらえています。事実、こうした、「非モテ」議論の懐の広さというのは、速水健朗氏へのインタビューや、各人の個人原稿においてよく俯瞰できる形になっていると自負しております。また、「非モテ」議論は全くなんの意味もなかったわけではなく、その最大の収穫は、「スクールカースト」「脱オタ」といった概念の一般化だと考えています。こうした部分は千葉のイニエスタ氏の柏レイソルのサポーター組織からみたCクラスのサバイブ術や、id:admire-don氏の同窓会観察エントリに結実しているように思います。

一方で、そうした非モテ議論が失速した理由についてですが、「非モテ論壇」コミュニティの結束力のようなものが弱まっていったのはコミュニティにおけるある種の必然のような部分もありましたしテキストサイト→2ちゃん・はてな→非モテSNS・匿名ダイアリーというアーキテクチャの移り変わりのせいともいえますが*2、その割には「非モテ」としてアイデンティファイするにはあまりにも「非モテ」議論は脆弱だったという事があると思います。つまり、「誰もが好きに」議論をした結果、寄って立つ基盤というか議論の軸もぶれまくり、あまりに弱くなってしまったように思います。
では、「非モテ」はどこに行ってしまったのでしょうか。id:p_shirokuma氏の指摘の通り、一部は「リア充 氏ね」になりました。それらが、「非モテ」よりもはるかにカジュアルなルサンチマンの吐露である点もおっしゃる通りで、「リア充 氏ね」も一種のデフォルメされた芸であると言えそうです*3。それらは主に「非モテSNS」や「はてな匿名ダイアリー」「2ちゃんねる」などのアーキテクチャに依っています。ただし、それだけにとどまらず、「草食系男子」といった概念にも一部継承されているように思います。もちろん、「非モテ」の一部のみですが。 そのあたりの共通点と相違点は森岡教授へのインタビューなどでも触れられているとおりです。
ですが、「非モテ」を語っていた個々人は一体どうなったのでしょうか、クリルタイ4.0でも『非モテ論客アンケート』などでその痕跡は見る事ができると思いますが、ここで重要になってくるのがある種の「赦し」の感覚であるように思います。それは、社会というか人生の不条理さと向き合う事でもあるように思いますが、「非モテ」の持つネガティブさを考えた時、それでも「非モテ」が個人の実存に何らかの影響を与えうるとしたら、ルサンチマンというか、「どう処理すればいいかわからない怒り」とどう向き合うか、という点に尽きるように思います。
その部分についてのとっかかりの部分は森岡教授へのインタビューで聞けていると思いますが、最後に、森岡教授がインタビュー中に語られていたコメントが非常に示唆的かつ興味深いものだったので引用したいと思います。

森岡 非モテの議論が、気付きの一歩手前みたいなところにいて、気づきのために自らそういう議論をすることによって最後のステップを踏んでいるのかもしれないですよ。
― 過去を振り返るっていう作業を行う事で、また何かに気付く…
森岡 だから、階段を上っていて、100段目が気付きだとしたら、97段目ぐらいに「非モテの議論」が3段ぐらいあって、そこではてなの人が議論をしていて、そこを通過して100段に抜けていく。はてなという場がいいイニシエーションになっている可能性あると思いますよ。うまくいった人はね。
― そういう意味では、非モテの議論は意味があったのでしょうか?
森岡 意味があった人には意味があった。意味が無い人は97段目でずっと止まってそこで議論をやっている人もいるのかもしれないですね。

  • 最後にどうしてもお伝えしたい事

それは、「奇刊クリルタイ4.0」は12月31日(木)の「コミックマーケット77」西り 06aにて頒布予定であるという事です。

*1:その内実は極めて曖昧なものでしたが

*2:この辺はid:Masao_hate氏の原稿『非モテに「歴史」は存在しない。ただ、アーキテクチャに依存するのみ(あるいは、非モテのモテ性について)』参照

*3:前出の速水氏のインタビュー記事において非モテのキャラ性については語っています。