古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

「どう処理すればいいかわからない怒り」

「奇刊クリルタイ4.0」補足エントリの最後です。前回の補足エントリにて、「奇刊クリルタイ4.0」における基本的な設計思想は「非モテとは、一種のバズワードである」というものです。
http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20091224#p2
「論壇」における一種のプロレス的組手としては、まぁ、そういう結論でもいいように思われます。ですが、その「当事者としての私」のありよう=実存問題に関しては何の回答にもなっていないように思います。


という事で、今回はそういう話。


個々人がネットで非モテについて語るモチベーションは何か、という事を考えた時、その回答の一つが「マイナスの自己啓発」である、というのがクソタイ補足エントリその1での結論だったわけですが、
http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20091212#p2
もう一つ、「ネットで非モテを語る理由」があるとすれば、それは「どう処理すればいいかわからない怒り」によるのではないでしょうか。以前、「少年B」という舞台の感想を書きましたが、それが一番明確なので少し引用してみます。

俺が中学・高校の時にクラスのDQNに本気で殺意を持っていた事を思い出した。
いや、DQNだけじゃなくて、DQNをチヤホヤする女達や周りの大人たちも。
みんな死んでしまえばいい。世界は終わる、終わってしまえ、と思っていた事を思い出した。
そういう中二病的妄想と。
そこから抜け出すために、俺はあいつらとは違う、特別な存在だと思って。
そして俺が縋ったのが「クリエイター」で。「サブカルチャー」で。
俺は「何者か」になりたいと思って、「何か」をなそうとしてきた。
だけど、少し年を取って気がついて周りを見回してみると周りには俺一人しかいない。
DQNのやつらなんかさっさと勝負から降りていやがる。
嫁と髪の毛染めた子供を和民かなんかに連れていって「やっぱり、普通の暮らしが一番なんだよ」とか言って幸せそうにしてやがる。
もちろんわかってる、DQNだってそれなりに大変だってことぐらい。
だけど、
なんだそれ。
なんなんだよ、それは。

http://d.hatena.ne.jp/republic1963/20090507#p2


クラスにDQNと呼ばれている人たちがいて、その人たちっていうのは、上手く世の中をやってきているわけです。授業をサボったり、校則違反(といっても些細なものだが)をしたり。一方でその人たちが「イジり」と称して、何の罪もない人たちが嫌な思いをする。それが嫌である人は東京に逃げ出し、ある人は「オタク」「サブカル」「クリエイター」に縋って生きている。でも、ふっと気がついて周りを見回すと、DQNの人たちははなからそんな事どうでもよくって、ジャージ着た嫁と天山みたいな髪形の子供を連れて、和民かなんかに行っている。彼らが乗り付けたシャコタン気味のステップワゴンからはヒップホップの「ストリートのリアル」が自慢げに流れている。そして和民で生中とたこわさなんかで乾杯しながら「やっぱり、普通の暮らしが一番なんだよ」とか言って幸せそうにしていやがる。彼らが中学校でしてきたことなんて「我々(って言っちゃうよ、もう)」にとっては一生残る傷であっても彼らにとっては「昔やんちゃしてきた思いで」とか「青春」って感じか、そもそも覚えてすらいない。


我々というのは間違いなく嫌な思いする方ではなくて、嫌な思いさせられる側だと思いますが、ようするにここで言うDQNへの怒りというのは、DQNが我々にあれだけ危害を加えておきながら、何の報いも受けずむしろ「善良な市民」として生きている、という事につきると思います。
はてなにおける「非モテ」の議論というのは、どこかでこうした怒りとも嫉妬ともつかない感情、漠然とした不公平感を元にして語られていたように私には思えます。こうした感情は、DQNに対してだけではありません。「イケメン・美人」も「勝ち組」も「老人」も「まとめブログ管理人」も「正社員」も「マスゴミ」もネットで語られている多くの事象がこうした「どう処理すればいいかわからない怒り」を元にして語られているように思います。それゆえに、「非モテ」もネット発のバズワードとして流通することができた。これは、インターネットによって勝ち組(うまくやっている人たち)も可視化されやすくなった結果、それに対する嫉妬もよりクローズアップされ連帯しがちなように思えます。


ですが、考えてみればわかりますが、我々がいくらネットで吠えたところで隣のDQNが死ぬわけでも、悔い改めるわけでもありません。そもそもDQNには全く別のネット世界が広がってるだろうし。我々がいくらエントリを書いても世界は全く変わらない。「そういうものである」という前提のもとでこうした議論に乗っかるというのは一つの振る舞い方ではあると思います。ですが、それを「変わらなければならない」という前提の元で何かを語るのはあまりに不毛であるように思います。
恐らく、我々(嫌な思いをする側)から「どう処理すればいいかわからない怒り」が消える事はないように思います。もちろん、そこから解脱できれば良いのだけど、ある程度の長い期間、そうした怒りを自分の中で飼いならす事が必要であるように思います。でも、どうすればよいのか。それは私にはわからないですし、私自身、そうした怒りと向き合い続けている人間です。ただ、「奇刊クリルタイ4.0」内では森岡正博大阪府立大学教授にお話を聞いています。

― 柴幸男という人の演劇に『少年B』という作品があるんですが、冴えない側にいる主人公は、30とか40歳にもなってクリエイターとして云々(笑)みたいな事言って、売れない役者やっていて、一方で主人公をいじめていた不良みたいな人は結婚して子供を作って、ローソンの店長とかやって「やっぱ普通の生活が一番ですわ」みたいな事を言っている。つまり、「いじめ」や、今日的には「いじり」ですけど、それって酷いと犯罪ですが、そこまでいかなくても本人の人格形成に多大な影響を及ぼして、結果、はてなで非モテブログ更新していたりする(笑)。でもいじめた側からしてみたらそんなことお構いなしでとっくに「温かい家庭」を築いているんですね。いわゆる人文系の「論壇」においてはそういう事があまりにも軽視されていて、下手すると「いじめられる側が無能だから」みたいな結論に落ち着いている部分もあります。怒りの大小はさておき、「非モテ」の議論の中にはそういった、「どう処理していいのかわからない怒り」について語っているという側面があると思います。「どう処理していいのかわからない怒り」を持ってしまった人たちにとって、自分を踏みつけてきた人々を許すためにはどうすればいいんでしょうか。


この私の問いに対して、どんな回答がなされているかは、是非、実際の「クリルタイ」本誌にて確認してください。

  • 最後に

くどいようですが、「奇刊クリルタイ4.0」は12月31日(木)の「コミックマーケット77」西り 06aにて頒布予定です。