異色のこじらせ映画、『さまよう小指』を見た
イベント登壇ということで、事前に『さまよう小指』を見た。
ストーリーはこんな感じである。
主人公・桃子は、5歳の頃から片思いをしている涼介にフラれてもフラれても諦めない、「恋愛ターミネーター」。そんな桃子はヤクザの女を寝取ったせいで、小指を詰めさせられた涼介の小指からクローンをつくり、夢のような日々を過ごす。その矢先、涼介本人にクローンの存在がばれてしまい、はなればなれに…!?
話のテンポがよく、時間も短めだったので飽きずに最後まで見ることができた。あと、会話のやりとりも面白かった。
何より主人公の我妻三輪子はかなりカワイイ。いわゆる「サブカル美人」顔で、好きな人にはかなりツボに入ると思う。あと、かでなれおんもヤリマンナース役で出ていて素晴らしい!
で、ここでは、映画を見て思った事を少し書きたいと思う。
そもそも、非モテ(男子)なり、こじらせ(女子)というのは、基本的に実存の表明であるというのと同じぐらいセンスの問題であった。
要するに、
「自分達は『モテ』という市場の中では敗北者なんだけど、『モテ強者』にはわからない確固たる『センス』がある」
というのが、非モテなりこじらせという主義主張の根幹にある。
映画『モテキ』の例を持ちだすまでもなく、だからこそ、多くのサブカル映画・サブカルドラマはその映画自体に登場するガジェット=センスを競ってきたわけだ。
だが、ここで問題になるのは、今の世の中において、そうしたセンスを競う事自体がそもそも成り立たない。
それは、競争する相手がいなくなっているため成り立たないという意味なのだが、その代わりに登場してきたのがその人の成熟度合いを競うという図式だ。
そこでいう成熟とは、ごく端的に言えば友達が多い、彼女がいる、結婚している、子供がいる、会社で正社員で働いている、といったことだ。
その意味でこの映画は、センス競争的な文脈は背景に退く。
では、成熟競争をするのかというと、「成熟」の段階すらすっ飛ばす。
実は、成熟はセンスよりもずっと努力が必要である。
彼女を作るにはモテる努力が必要だし、結婚して仕事を続けるのも大変だ。
だが、『さまよう小指』内においては、そんな努力は存在せず、開始から数分で「ずっと想っていた人の小指からクローンを作る」という超ウルトラCを使ってこの成熟競争に勝利する。
自分の手で自分の理想の異性を作り上げてしまうという解決策は、考えようによっては非常にホラーだ。だが作中ではそれを感じさせない。その作りは素晴らしいのだが、それはともかく、以前、私は映画『モテキ』に関して、
ご都合主義的に自分のやりたい事を仕事としてゲットし、なお仕事をほっぽりだして恋愛(しかも超わがままな理由でフッたりする)に邁進するフジ。これに共感しろという方が無理である。というか、許されるなら殴り倒したい。
と書いた。
だが、『さまよう小指』でも開始数分で、小指が降ってきて解決してしまう。
では、その後で物語を駆動させるのは一体なんなのか。
要するに、「理想化された好きな人と現実の好きな人」とどっちを選ぶのか、という選択の問題になるわけなのだが、その結末がどうなるか。是非劇場で確認してみてほしい。