ブログ書くのは承認欲求か?『認められたい』を読んだ
DeNAの第三者委員会の報告書はまだ読んでいるのだが、シロクマ氏の単著は読み終わった。
※著者に献本いただきました。ありがとうございます。
どんな本なのかというと、マズローの欲求段階説(中学校の保健体育の授業とかで出てくるアレ)とコフートの自己愛の理論(この人のことは初めて知った)を2010年代的に適用した本だ。
では、具体的にどういうことかというと、以下の三点になる。
2:「認められたい」は成長する
3:「認められたい」は貯められない
1でマズローの欲求段階説、中学生の保健体育の授業の時にエロ系の授業を期待してたら三角形出てきて絶望のあの5段階の欲求のうち、承認欲求(誰かから認められたい)と所属欲求(どこかに所属したい)という2点にフォーカスすることでモデルを単純化したうえで、2でコフートの理論を緩用して「認められたい」気持ちはレベルアップしていく=若いうちに「認められたい」レベルが低いのはあり得ると筆者は考えている。
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「認められたい」は貯められるのか、貯められないのか
で、この本のどこがポイントなのかというと、3の「認められたい」感情は貯められないという点にある。
要するに、筆者が考える承認欲求や所属欲求とはご飯と胃袋のようなもので、晩飯をいくら食べても翌朝にはお腹が減っているように、「認められたい」は増えたり減ったりするもの、いくらいっぱいになってもしばらくするとなくなってしまうものというように考えているようなのだ。
で、これはちょっとびっくりした。
なぜかというと、例えば、「Twiiterでなんかうまいこと言う」という行動で1ポイント「認められる」とする。で、同じく「ゲームでひとしきり遊ぶ」で5ポイント、「彼女作ってデートする」で10ポイント、「会社で出世する」で100ポイント「認められる」とする。「認められたい」が貯金のように貯められるとしたら、Twitterでなんか言ったりするのは承認として低レベルで「会社で出世する」を目指せということになる。
これは「認められる」行為自体にレベルの高低があり、認められることに飢えるのは低レベルの承認しか獲得できないから、という前提に立っている。要するにゲームばっかしてるやつはダメ、はてなでブクマ集めて喜んでるやつはダメという理屈だ。
だが、これが貯められないという話になると、「認められる」行為のレベルは大した問題ではなく、問題はその運用方法にある、ということになる。
つまり、私の「認められたい」のキャパが100あったとしたら、今すぐ軽くCIV6や信長の野望 創造(withPK)をやって満たすのか、友達と飲みに行ってウサを晴らすのか、仕事に打ち込むのか。当然、仕事で出世するなんてのはハイリスクハイリターンだから、今は飲みにでも行くかといった日々の「認められたい」のマネジメントをどうしていくか。いかに簡易な「認められたい」で満たされつつ自分自身の「認められたい」のキャパを増やしていくかのほうが問題、ということになる。
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「認められたい」の今日的な問題
これは結構今日的な問題で、「認められたい」のマネジメントを失敗することでそれが問題行動につながることが多いのだ。筆者はそこで引きこもりのような問題を想定しているようだが、それ以上に、「SNSで●●●(自主規制)しちゃう奴」とか「高知でトマトつくっちゃっうあの人」とか「ライターのはずなのに●●●(自主規制)しちゃう奴」みたいなことになっちゃうことがリスクだと私は思った。
そう、これがこの本の一番重要なところなのだと思うのだが、これまでまとめてきた「認められたい」はそのマネジメントが大切だということは、承認欲求や所属欲求は「あっても良い」「あって当然」なものであり、例えば「いい大学に行きたいという所属欲求のために勉強を頑張っていい大学入った」というような「認められたい」感情をうまくマネジメントして結果を出すことは称賛されるべきだという、近年のネット界隈ではとかく悪者にされがちな、「承認欲求・所属欲求」の再評価を行ったことにある。
正直、では「認められたい」をマネジメントするためにどうすればいいかということに対してこの本が示している結論は弱い。だが、より高いレベルの「認められたい」をムリに求めるのではなく、「認められたい」をいかにマネジメントするかのほうが大切という本書の考えは基本的には支持できるし、私は面白いと思った。
だって、こうして久しぶりにブログ書くこともマネジメントなんだもん。