テレキャスターの真実と嘘
前にある即売会(≠メジャーな即売会)に売り子(手伝い)として出たときの話。
その時は人もそんなにいなかったんだけど、そこに買いもしないのにずっと店先にいて世間話してる人がいた。しまいにはそこの店先で他の客にうちらの商品の宣伝をされる始末。私はそこで話し掛けるなオーラを@会社ばりに全開にしてたおかげで一緒に売り子をしていた人がたいおうしていたんだけど、あれはなんなんだろう。
よくセミナーなどで、終わって主催者が飲み会らしきものを始めるまでずっと参加するでもなく、帰るでもなく何となく周りにいる人がいる(俺もそうなんだけど)。そういう人はワナビーなんだろうけど、たかだか同人レベルでも「作者と友人(?)になりたい」みたいな考えが働くのだろうか。
基本的に、なる事が難しいものほどワナビーというのは多くなる傾向にある。
例えば、評論家ワナビー、漫画家ワナビー、マスコミワナビー(ex:republic1963氏)というのは世の中にごまんといるが、サラリーマンワナビーというのは原理的にはなりたたない。サラリーマンワナビーは成り立たないが、一流企業ワナビー(ライフハック?)というのはわりと多い。それはつまり、漫画家や評論家は誰もがなれるわけではない(というかなる方法自体よくわからない)が、サラリーマンにはわりと誰もがなる事ができる。ただし、サラリーマンには誰もがなれるが、誰もがグーグルに入れるわけではない。
では、そういう人がクリエイター周りに仮にいるとして、ワナビーうざい、という街の声は非常によくわかる。だけど、ことはそれほど単純ではない。
そもそも、ワナビーってダメなんだろうか。トニーウィルソンだってワナビーだ。ワナビー(こういう風=漫画家とか評論かとかゲームクリエイターになりたい、という思い)は創作における強力なモチベーションとなりうる。問題は悪いワナビーの存在。ここで言う悪いワナビーとは、つまり、ゲームクリエイターになりたいと思うが何もしない人。がクリエイターの周りにはいつもいる、という人のことだが、このワナビーの善悪つうのは原理的には区別が付けられない。
悪いワナビーがいついいワナビーになるか誰にもわからないからだ(逆もしかり)
もうひとつの問題。ワナビーというのは「いいお客様」の別名だからだ。もっと言うと、ワナビーすらいないようなジャンルというのはジャンルとして死んでいる。小説、というジャンルがなんだかんだ言ってまだまだ大丈夫なのは、小説を書きたい(どんな形であっても)と思う人がまだ一定数いるからだ。
だが、そこらじゅうワナビーだらけになる、という事もまた危険な兆候ではある。
そこらじゅうワナビーだらけになるとそのジャンルは一種の内輪になる。
あのイベント(新人賞)で見た人だらけになる。
そしてそこで疑われるのは「不正」だ。
http://anond.hatelabo.jp/20081027160514
私は講談社が本当のところどうなのかはよくわからないが、書いた人の気持ちはよくわかる。つまり、「俺らと同じなのになんであいつだけ成功しているんだよ」という考え(普通これを「嫉妬」という)。
外から見ると「全てが内輪の社会主義的助け合いである」と疑われる(そう嫉妬される)ような構造はワナビーの割合が高すぎると起こりがちだ。
つまり、あるギョーカイ周辺には常に一定数のワナビーが存在するとして、問題はギョーカイ内におけるワナビーの割合だ。
CGM時代の問題、みたいなものがあるとして、そのうちのひとつが「作者とユーザーの距離が近すぎてもはや区別がつかなくなる」というものだ。
ようするに、「作者とユーザーの距離が近すぎて区別がつかなくなる」状態は「俺らと同じなのになんであいつだけ成功しているんだよ」という嫉妬心を高度に刺激するのだ。それは基本的にはいいことだとされているし私もいい事だと思うんだけど、果たして本当にそうなんだろうか。私は、ニコニコ動画で結構有名(らしい)実況動画の中の人にあったことがあるんだけど、彼は果たしてクリエイターなんだろうか、じゃあ藤田直哉やラルクの人とはどうちがうんだろうか。ブロガーという存在もそうなんだけど読者なりリスナーなりに認識として「素人と大して変わらない」という認識をされる時があって、それが支持という形をとることもあるし、ワナビーという形をとることもあるのかもしれない。実は嫌儲っていうのもこの辺が問題なのかもしれない。