川崎尚之助は八重となぜ別れたのか
世の中は『あまちゃん』一色なわけだが、私は『あまちゃん』はほとんど見たことがない。で、私は代わりに何を見ているのかというと大河ドラマ『八重の桜』である(といってもHDDに撮りためたものを見返しているので1カ月遅れぐらいなのだが)。
で、『八重の桜』。第三十三話まで見終わったところなのだが、主人公の八重(綾瀬はるか)と夫の川崎尚之助(長谷川博己)の関係をこのところずっと考えている。
この川崎尚之助という人は八重の最初の夫なのだが、どんな人なのかよくわかっていない。なんせ、Wikipediaでも『八重の桜』放送後しばらくは赤リンクのままだったし、実際の研究でも、つい最近まで戊辰戦争で八重と離れ離れになった後どうしていたのか良くわかっていなかったらしい。
で、第三十三話「尚之助との再会」では、戊辰戦争で離別した川崎尚之助(長谷川博己)と八重(綾瀬はるか)が再開。お互いの道がもう交わらない事を確認し、別の道を歩み出すところが二人の涙とともに感動的に描かれていた。あぁ、八重と尚之助は離縁したくてしているわけではないのだろうなと思って、さらに悲しい気分になった。
ドラマで描かれた川崎尚之助と川崎八重の夫婦関係というのは、大河ドラマでは極めて珍しいものだった。家で待ってる奥方と政治とか戦争とかやってる夫、という感じではない。なんせ尚之助は元々兵庫(出石藩。藩主はあの「センゴク」仙石秀久の子孫だ)の出なので会津藩士ではない。よって結構な期間ニートみたいな生活をしているのだ。結婚しても妻の実家に居候してるし。もちろん、だからといって才能がないわけではなくて、ニートしながら銃を改良したり(なんかライフル銃とか発明してた(笑))、反射炉の建設を藩に進言したりしている。江戸に留学したら短期間で洋式調練を身につけたりしている。で、妻は妻で女だてらに銃を打ちまくって戊辰戦争では男勝りの活躍をしている。
この二人の関係性は「戦友としての夫婦関係」だったと思う。どっちが主でどっちが従というわけではなく、対等な関係。「背中を預けられる間柄」というか。まぁ、実際、夫婦で大砲ぶっ放しているわけだから戦友なんだけど、それ以前に精神的な関係として戦友だった、と思う。だが、「戦友としての夫婦関係」というのは、一緒に歩み続けられるうちは良いのだが、いつか、それが出来なくなることもある。その事実をまざまざと見せつけられたのが、今回の尚之助と八重の別れだったと思う。尚之助は自身に才能があって、それを生かす場も(かなり時間はかかったが)与えられた。そして、お互いとても理解しあえた妻がいた。それでも、一緒に歩み続けることはできなくなった。士官した会津藩は逆賊の汚名を着させられ、残された会津の人々を救うために彼は裁判に巻き込まれ、多額の借金を背負ってしまう。
『八重の桜』では、明治維新という新時代に対して、それでも前に進んでいこうとした人と、進むことができず、歩みを止める人達が描かれる。前者は八重の兄妹や山川兄弟(浩と健次郎)だが、後者は梶原平馬や尚之助だった。尚之助は結局「歩みを止めた」がために八重と一緒に歩むことができなくなってしまったのだ。その描かれ方がとても鮮烈で、しかも歩みを止めた人たちを単なる無能として切り捨てない。彼ら「歩みを止めた」人たちにだって、託したい想いや理想や夢があったのだ。それを「諦めた」のか「諦めされられた」のか。
だからこそ、
私の妻は、鉄砲を撃つおなごです。私の好きな妻は、夫の前を歩く、凛々しい妻です。八重さんの夫になれた事が、私の人生の誇りです。
という、尚之助の最後のセリフはとても重い。
「戦友としての夫婦関係」というのはぱっと見、理想的な夫婦関係だと私も思う。「リベラルごっこ」の一つとしてこうした対等な関係性を持ちだして称揚することは簡単だ。だけど、自分は妻の歩みにずっとついていくことができるのだろうか。いつか、自分の理想と現実が引き裂かれてしまったとき、その時自分は何を妻に残すことができるのだろうか。尚之助と八重の別れを見ながら、そんなことをずっと考えている。
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