我らの時代〜恋愛至上主義との聖戦(ジハード)編、萌えは恋愛至上主義に対するカウンターか〜
昨日、オタク関連のサイトをまわっていたら、興味深いブログを見つけました。
http://noza.jugem.cc/?eid=242
一般人から(まるべく)客観的にオタクを見ようとしていて面白かったです。しかも知的でわかりやすい。どっかのD.T.の文章とは大違いですね。ちなみに、ここに反論のコメントをしていた(オタクと思われる)人たちがこぞって「オタクはロリコンではない」といっていますけど、そうでしょうか?オタクの嗜好があるパターンに基づいているのは紛れもない事実で、「妹」は確実にそのあるパターンの一つだと思いますけど。オタクが大好きなギャルゲー、妹キャラは必ず入るけれども(「egg」とか読んでる)ギャルのキャラが入ることは100%ない。(オタクが好むような)妹とギャルどちらが現実の社会に多数生息しているかは論を待たないにもかかわらず。ギャルが出てるギャルゲー、あるなら見せてください。
さて、ここからが本題です。このブログで「オタク文化は恋愛至上主義*1に対するカウンターだ*2」という記述がありましたが、そうかなぁ?と思います。
よく、理論派オタクもこういう事をおっしゃいますけども、恋愛至上主義がマスコミによる「虚像*3」だっていうのには100%納得。だけど、「恋愛至上主義がクソなのはわかったから、その代わりに何をすればいいの?」という問いに対する答えが「萌え」。えぇ〜って感じになるのは私だけでしょうか?恋愛に変わるものが(経済的にも努力という意味でも)コストの低くなった恋愛*4ってあんた、そりゃないよ。と思う。それって「恋愛しない」じゃなくて「恋愛したいけどできないから、これで我慢」でしょう。で、これを「我、恋愛至上主義に代わるもの見つけたり」ってそれはやせ我慢もしくはへ理屈というのでは…なんか恋愛至上主義に対抗っていうより逆にオタクでさえ恋愛至上主義のマインドコントロールにはかなわないのだなって悲しい気持ちになってしまいます。
まとめ:この恋愛至上主義へのカウンターっていうのはオタクをはじめD.T.やサブカル人、知識人などありとあらゆる「非モテ系」が試み、そして挫折した見果てぬ地平である。そして、オタクの掲げる「萌え」もやせ我慢・へ理屈の域を出ておらず、残念ながら恋愛至上主義の巨大な力の前ではあまりにも無力である。