社畜なら読んで損はない『サラリーマン漫画の戦後史』と「能力」について
もうだいぶ前の本ですが図書館で借りて読みました。
かなり面白かったです。
この本によれば、日本のサラリーマン漫画の多くには「源氏の血」が流れているのだといいます。
「源氏の血」とは筆者の造語ですが、「会社家族主義」や「人柄主義」を謳った源氏鶏太の小説を源流とする作風で、要はまじめで誠実。仕事に励む主人公とそれを温かく見守る上司や同僚という「家族」としての会社の側面を勧善懲悪的に描く、いわば最大公約数としてのサラリーマン像のことです。
日本のサラリーマンを取り上げた漫画の多くにはある時点まで「源氏の血」が流れており、その到達点が「島耕作」シリーズだというのが本書の最初から前半部分。終戦から高度成長を経てバブルへとその時々の作品を取り上げ、鮮やかに語っていくその手法はかなり面白かったです(1作品につき数ページで通勤電車などで読みやすいというのも社畜的にポイント高し)。
で、バブル崩壊を経てサラリーマン神話が次々と解体されていく中で源氏鶏太の存在も今や忘れ去られ、漫画が描くサラリーマン像も最大公約数的なものからそれぞれ個別の、最小公約数的な存在へと至った…。
これがこの本のものすごくざっくりとした内容となります。
- 「人柄主義」と「能力主義」
ですが、読み終わった後に疑問に思ったことが一つあります。
それは、「源氏の血」が「家族主義」で「人柄主義」だとしたら、その対立項は「能力主義」ではないのでしょうか。つまり、誠実さや勤勉さではない「実力」によって評価されるサラリーマン像です。実際、この本では『エンゼルバンク』のような能力主義的漫画も取り上げているわけですから。
ところが、この本ではそういった構成にはなっていません。
それは何でかというのを考えたんですが、「能力主義」について思い至った瞬間に新たな疑問が湧いてきます。
そもそも会社における「能力」とは何なのか、と。
私たちは会社生活をしていくうえで必要な客観的な「能力」が何らかあり、『ドラゴンボール』のスカウターよろしくその能力を測る指標があるという前提のもとで、毎日仕事をしています。では、サラリーマンにとっての戦闘力とは一体どんなものなんでしょうか。
「●●さんて仕事できるよね」と言った時に、それは、会議を仕切る能力なのか、社内の情報に精通しているのか、事務処理能力なのか…何を評しているのか全く分かりません。もちろん、そう評した人間にとっては何らかの判断基準があると思うのですが、「人柄主義」における「誠実さ」以上に「能力主義」の評価基準というのは不明確になってしまいます。
- 「キャラクター」と能力
で、ずーっと考えたわけですが、はたと思いついたのが、それって「キャラクター」なんではないかと。
要するに私たちが「能力」と呼んでいるのは「キャラ立ちしてそれを周囲に認めさせる能力」あるいは「周囲が期待するキャラを演じる能力」なのではないかと。
「人柄」という全人格的なものではなく「キャラ」という着脱可能なもの。
キラキラ女子、体育会系、オタク系ってだけではなく、飲み会好き、ゴルフ/麻雀好き、上司へのおべっか大好きなどなど…。
それを場によって使い分けて、周りの人に自分の「キャラ」を認めてもらう。
もちろん会議をしっかり回したり、書類作ったりとかっていう能力もあるんですが、それらは「キャラ」が周囲に認められて始めて評価される。
ここで問題になるのが、その会社によって、フィットしやすいキャラが違うということです。よく企業の人事とかが語る社風というのも、
「どんなキャラがフィットしやすいのか」ということを考えると非常にしっくりきます。
「社長の言うことは絶対服従、昼飯も全員絶対一緒のムラ会社」とか、
「個人商店の集まりみたいな、お互い一切干渉しない会社」とか、
「飲み会/ゴルフ大好き!とにかく参加しないやつは非国民会社」など、
会社によって演じるべきキャラが違うわけです。
で、この社風というのはどれだけ企業研究してみてもわからない。
新卒社員向けのプレゼンにも採用ホームページにも、
「ウチの会社は喫煙室で密談しまくりだからタバコ吸えないと厳しいですよ」
みたいなことは絶対書いてないから、実際に入社してみないとわからない。
会社から求められるキャラと「本当の自分」との乖離。
そんなところが、2010年代の社畜にとっての一番厳しい現実なのかもしれません。