古田ラジオの日記「Welcome To Madchester」

フリーライター・婚活ライター・婚活アナリスト、古田ラジオのブログです。

「庶民感覚」とは、結局「『ずる』を許さない」という事でしかない

政治の世界のみならず会社などでもやたらと「庶民感覚」とか「現場感覚」とか言ってくる人がいて、そういう人は現場とか庶民の味方だ、みたいな風潮があるけどそんなことないんじゃないかていう話。

==============サマリー==============

1:90年代のみぎわさん

2:庶民感覚とは「ずる」を許さないという事

3:昔は成立していた「庶民感覚」

4:現代の庶民感覚

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1:90年代のみぎわさん

もう30年ぐらい前の話で恐縮だが、私が通っていた中学校で生徒会選挙が開催されることになった。その時に同じクラスの女子が立候補したのだが、残念ながら彼女は「ちびまる子ちゃん」における「みぎわさん」的なポジションにいたため、クラスのスクールカースト上位の人間からは嫌われていた。

そんな時にクラスの担任教師は突如「クラスで生徒会役員に立候補した人間がいた場合、クラスメイトは全員立候補した人間に投票しなければならない」という理屈を言い出したのだ。時はまさに中二病スクールカースト上位組も負けじと「民主主義だから誰に投票してもいいんだ」という原理原則論を持ち出して反撃してくる。そこで担任が何を言い出したのというと「原理的には許せても感覚としては許せない」という、アントニオ猪木ならずも、まてまてまてと言い出したくなるような超理論であった。

いやいや軍靴の音が聞こえて、関口宏が風読んじゃうでしょそれっていう、民主主義を破壊する超理論で市民社会破壊しとるやんっていう話なんだが、これって要するに「同じクラスの人間を応援しなければならない」という「庶民感覚」で、それを「民主主義のルールという屁理屈」を使って無視するのは「ずる」で、「『庶民感覚を守ること』の方が『市民社会のルールを守る』事よりも上位に置かれている」だと考えると非常に納得できる。

2:庶民感覚とは「ずる」を許さないという事

そう、「ずる」なのだ。ここでいう「ずる」というのは、

「明確なルール(=法律や会社の規定)には違反しないが、内輪のルール上はNG」

というものだ。例えばなのだが、あなたの勤めている会社では「女性は育休とってもいいけど男性はNG」とか「女性の育休取るのは順番」みたいななんとなくのルールってないだろうか。これは労働基準法第65条で決まっているわけでも会社の規定できまっているわけでもないが、これを守らないのは「ずる」であり「『ずる』は許さない」というのが庶民感覚という事になる。そして、この「ずる」は芸能人の不倫スキャンダルから政治家の問題、フジロック参加から会社の育休取得まで、ありとあらゆる場所にあり、それを許さないのが「庶民感覚」だと考えると、なんでtwitterやyahooニュースのコメント欄にこんなに怒ってる人がいっぱいいるのかがわかる。さっきのみぎわさんの話ではないが、私たちは「庶民感覚」で物事を判断する(そしてそれが法律などのいわゆる明確なルールよりも優先されること)について慣れ親しみまくっており、何の疑問も持たずに「ずる」を見つけて批判しているのだ。

3:昔は成立していた「庶民感覚」

さきほど述べた通り、「庶民感覚」には「ずる」かどうかを判定するための「内輪のルール」を決める人が必要になる。これが例えば会社であれば会社のお局や声大きい系社員や、ワイドショーの司会者(なんてったって「アッコにおまかせ」だ)、ニュース番組のMCだったわけで、彼らの言う「庶民感覚」は、少なくとも昔は「庶民感覚」の最大公約数として世の中に流通していた。

これは効率的な仕組みで、私たちは政治家の不祥事(法律違反ではなく不祥事)から芸能人の不倫、フジロック参加の是非まであらゆる「ずる」を見つけて低コストで判断できる。なぜって例えば芸能界のことなら「アッコに、おまかせ」しておけば自動的に善悪を判断してくれるからだ。もう一つが新聞・テレビといった「ずる」を見つけてきてくれる人たちの存在だ。新聞やテレビといった容量・時間が限られたものに「編集」されてその中に納まる範囲で「ずる」が表示されたからこそ私たちは適切に「庶民感覚」を発揮することができたのだ。

ただ、今やこの「庶民感覚」の最大公約数がなくなってしまったことで複数の「庶民感覚」が対立しまくっている。例えば育休で言えば「男性でも女性でも何が何でも絶対取得!取らせない人間は犯罪者」という人と「女性はいいけど男性は絶対取らせない」、「私の若いころは育休なんてなくてね…」という複数の「庶民感覚」があり、それらが対立している一方で、様々なネットメディアがほぼ無限の容量で記事を書き続けるため収拾がつかなくなってしまっているのだ(「感覚」だから、納得することはほぼない)。

4:現代の庶民感覚

そんな現代で「庶民感覚」「現場感覚」のようなものを全面に押し出してきた政治家や上司があらわれたら、そいつは非常に危うい。だって、その人たちは「自分に『アッコにお任せ』しろ」ってことを言っているだけなんだから。そして、複数の「庶民感覚」が対立しまくっている現代ではその庶民感覚上司のいう事を聞く人はほとんどいないだろう。

恐らく我々にできる最善のことは、SNSをそっと閉じ、明確なルール(=法律や会社の規定)と自己の感覚を限りなく同一化させることだろう。もしかしたらそれはこれからを活きる必須のスキルになるかもしれない。

 

チミたちはどう育休を取るか

9月19日は「育休を考える日」なんだそうで、それにちなんだ話でも。

前回のエントリから落差がありすぎて大変恐縮ですが、子どもが生まれて数年になります。で、考えたことなど。

==============サマリー==============

1:男性の育休取得が増えない(恐らくの)理由

2:「家事を誰がやるか」はタスクの問題

3:育休を取らないとどうなるか

4:チミたちはどう育休を取るか

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1:男性の育休取得が増えない(恐らくの)理由

まず、最初に書いておきますが私は育休を取ったことはないですが、基本的に男性も育休を取ったほうが良いと考えています。なんでかというと、この育休期間というのは「男性が育児・家事スキルを磨き、仕事と両立させるためのタスクコントロールができるように慣れるための最後の機会」だからです。要は、子どもが生まれるタイミングで一口に料理でも「たま~に作る味もいいけど手間も金もかかりまくった料理」から「いかに手早く・安い料理を作るか」というのにシフトしていくのですが、それに合わせたレシピ・スキルを磨いていかないといけないわけです。磨いてますか?私は磨いてませんでした。てか、なんなら「たま~に作る味もいいけど手間も金もかかりまくった料理」でいいと思ってました。

んで、恐らくなんですがこの男性が育休を取る目的つうのがいつまでたってもあやふやだから、みんなから「ずる」「取っても取らなくても良い」「育休取ってなにしてんだか」と言われてしまう、なんなら当の男性時代が「育休取りたいな~でも取ってなにすんだろ~」ぐらいなノリ(少なくとも私はそうでした)だというのが男性の育休取得がいつまでたっても増えない理由なんではないんでしょうか。

2:「家事を誰がやるか」はタスクの問題

で、私の場合、子どもが生まれてきた最初のころは「育休取りたいな~でも取ってなにすんだろ~」的なノリだったことと、すぐ転勤が決まったこともあり、結局育休を取らずじまいだったのですが、男性の育休取った方が良いという情報も正直「Veryの小島慶子でハフィントンポストのインフラ系企業勤務のエリート様がんなこと言ってるだけだろ~はーしんど」ぐらいの感じで聞き流していたのですが、正直これについてはめちゃくちゃ後悔しています。いや、ハフィントンポストの言うことを聞き流していたのは別に後悔していないのですが、家事スキルを磨いてこなかったことに対してです。

「家事を誰がやるか」はライフスタイルとか、ドグマではなくただただタスクであり、子供が生まれることでこのタスクが今まで100ぐらいだったのが200ぐらいに激増してしまうわけで、それを誰かがやらないといけない。で、やるのは「手があいてるやつ」だというシンプルすぎる事実を子どもが生まれると知ることになり、そして「手があいてるやつ」が無能すぎるということを知ることになるのです。

3:育休を取らないとどうなるか

私の場合、転勤したばかりで慣れない土地での生活ということもあり、まず仕事でめちゃめちゃ疲弊することになりました。で、今までだったらその分残業して仕事をこなすというやり方をしていたのですが、子どもが生まれたことで家庭内のタスクが激増したことでそれもできず、ある程度早く帰って家事もやらないと回らなくなる、でも家事スキルが低すぎて無能で泣ける。家帰って11時ぐらいから風呂掃除したり、洗濯干したり、夜泣きで起こされたり、ミルク先に作っておいたり…正直「仕事の方がまだマシじゃん」といつも思っていました。

以前、セクシー環境大臣が育休について「お風呂、おむつ替え、ミルクづくりといったことも私は担当している。」とおっしゃっていたそうですが、そんなぐらいで済むなら楽だわ、というのが正直なところ。タスクが残ってんだから誰かがやるしかない。でもそれをやるのは自分しかいない…。ミルクを飲ませたら言わなくても作っておく、おむつを替えたら補充しとく、子どもが昼寝してるうちに買い出ししとく言われたことをやるんではなく、自分でタスクを見つけ出して先回りして潰していく。家庭科レベルで止まっている家事スキルを上げながらこのタスクコントロールをしつつ、仕事と両立させるというのは正直めちゃめちゃしんどいと思いました(今も続いているけど。あと世の働くお母さんがたご苦労様です)。

www.asahi.com

4:チミたちはどう育休を取るか

というわけで、男性の育休というのは正直「最後のチャンス」なので取ったほうがいいよという話でした。正直、自分らぐらいの年代だと「お風呂、おむつ替え、ミルクづくり、たまにNetflixロマサガRSといったことも私は担当している。」という感じでも「俺は育児に参加してるぞ!」みたいな感じを醸しだせると思っている方もいらっしゃるかと思いますが、そうじゃないんだぞというところはご理解いただければ幸いです。

 

「非モテ」からはじめる男性学を読んだ

『「非モテ」からはじめる男性学』を読み終わりましたので感想でも。

=======サマリー=======

1:『一つ教えといてやろう君らのいる場所は我々はすでに三千年以上前に通過している』

2:登場人物の社会的地位について

3:結局三千年以上解決しない問題

4:非モテ解消のための方策

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1:『一つ教えといてやろう君らのいる場所は我々はすでに三千年以上前に通過している』

最初に結論から。烈海王にこんなことを言われるまでもなく、本書には非常に既視感のある内容が多い。具体的には、例えば、非モテ研(ぼくらの非モテ研究会。当事者による研究グループ)で集まった時後にご飯を食べてるという話が登場するが「それ俺らがいつもやってたやつじゃん」となるし、お互いの行為を俯瞰的に見て「横の笑い」を取っているという話も伊集院光の深夜帯ラジオやファミ通の読者コーナーのことを想起してしまうなど、本書内で語られるソリューションもどこかで見たことがあるようなものが多い(後ほど詳述)。

もちろん、こうした内容が学問的にまとめられた例はあまりないだろうし、車輪の再発見であっても「やらないよりはやったほうが良い」ので、それが即、本書の価値を下げるものではない。さらに「いじり」などの被害によってどのように非モテが生まれるか、そしてそれが女性への「女神化」や「一発逆転」に繋がり、どう「イタい行動(マイルドな表現)」となっていくかがモデル化されていた。非モテというのは「『モテないこと』を自分で決めた(もしくは決めさせられた)人」だともいえるが、その点は非常に面白かった。それでもやはりどこかで既視感のある内容が多かったのは事実である。

 

2:登場人物の社会的地位について

次に気になったのがこの非モテ研で当事者語りをしている人たちの社会的地位についてである。ここについての情報がほとんどなく、端的に言うと実際はともかく、私は「全員学生なんじゃないか」と思ってしまった。ここで問題になるのが「弱者男性」と「非モテ」というのが果たして同じなのかという問題で、本書では「弱者男性=非モテ」という前提でまとめられているように思えるが、10~15年ほど前の自分の感覚ではいわゆる「非モテ論壇」に集まっていたのは学生よりも社会人の方が多く、様々な社会階層・学歴の人がいたように記憶している。そのこともあり「(少なくとも当時は)弱者男性=非モテ」とは一概には言えないのではないかと思っているが、本書ではそこについての記載がなく、どういう人たちの考えなんだろうと思ってしまった。

 

3:結局三千年以上解決しない問題

本書で語られる非モテ解消のための手段についてなのだが、これが「女性に優しくする」「学校や職場以外でのコミュニティを創る」「趣味など他のことに打ち込む」ということなのだが、恐らく「論壇」や各種書籍で繰り返し言われてきたことでもあり、非モテ解消のためのソリューションとしては非常に弱いと思う。非モテ解消のための方策としてよく言われるのが恋愛工学に代表されるようなナンパテクニックなどを使って女性をゲットしていく方法。これを仮に脱非モテのカオスルートとする。一方で女性に優しくするなどの方法はいうなれば脱非モテにおけるロウルートのようなものだ。カオスルートはハラスメント行為や犯罪とも地続きであるが一方で実利を得やすい(とされている)。一方でロウルートは政治的「正しさ」は担保されているがが効果が非常に弱い。例えば非モテ研のようなコミュニティ活動の場合はせいぜい数十人が対象となるだろうし、女性に優しくするというような騎士道精神を発露させた場合、よりこじらせる可能性だってある。

非モテをめぐるロウとカオスの問題は烈海王的に言えば「我々はすでに三千年以上前に通過している」のだが、いまだに解決を見ていない。ロウかカオスか、どちらを選択するかは個々のオピニオンリーダー*1にゆだねられているが、その点でロウルートの「正しさ」ばかりが強調されている(「正しい」ことはほとんどの人がわかっている)本書については少し残念に思った。

 

4:非モテ解消のための方策

最後に、とはいえ非モテ解消のための方策について考えてみよう。それは恐らく「一発逆転」を女性に求めるのではなく、他のこと、さらにいえば仕事(学校ではなく)に求めることだ。ぶっちゃけて言えば、仕事でいい会社に入れば収入と社会資本が増えて女性とお付き合いする可能性も上がる。よく「収入に応じて結婚率も上がる」なんてことも言われるわけで、収入を上げるというのは有力な選択肢となるのではないだろうか*2。その意味で本書における参加者の社会的な地位(とその変遷)については何らかの記述がほしかったと思う。そして、この戦略を取った場合、失敗しても大してダメージは大きくない。最悪女性とお付き合いすることがなくても生活基盤は整えているわけで、一人の生活を楽しめばよく、複数の可能性を担保できる。

恐らく一番まずいのは誰かの有料noteに課金しちゃってわざわざ非モテ情報を手に入れちゃったりすることで、ロウ・カオスのルートに関わらず、「ドグマ(教義)としての非モテ」を受け入れてしまうことだろう。非モテをライフスタイルとして折り合いをつける。そのための方策が見つかる時はくるのだろうか。

 

*1:伝説のオウガバトルより

*2:それよりも問題はコミュニケーション能力が劣位でも高収入をえられる仕事が近年少なくなってきていること=本来コミュ力なんかいらない仕事にもコミュ力を求められることが増えていることだろう

ワナビーをバカにするものはワナビーに殺される

 この2人のうちの一人ってたぶん俺なんで応答しておく。

サマリー

  1.  ワナビーとは結果責任であり、敗北が宿命づけられている

  2. ワナビーとは「ライフスタイル」である
  3. それでもワナビーをバカにしないほうが良い理由

 

1:ワナビーとは結果責任であり、敗北が宿命づけられている

 ワナビー(何者かになりたがっている(いた)人と言いかえても良い)とは、何かに憧れ、それになりたがっている者のことを指す。だが、これだけでは不十分だ。まず、ワナビーというのは「漫画家・小説家」「ゲームクリエイター」「人気YOUTUBER」のような『人から羨ましがられるような人気職業を目指している人』という意味が付加されている。加えて、ワナビーには『人気職業を目指して失敗している人』のことを指す。手塚治虫はマンガ家ワナビーとは言わないし、ウメハラはプロゲーマーワナビーと言う人はいないだろう。かれらは実際に自分のなりたいことを実現させているからだ。同様に「サラリーマンワナビー」なんて人はまずいない。サラリーマンなんていう職業はありきたりで誰にでもなれるからだ。

つまり、

  1. 人から羨ましがられるような職業を目指し
  2. かつ、それに失敗している人

というのがワナビーの定義となる。

失敗している人のことをワナビーというわけだからマウントを取るには格好の相手である。かくしてワナビーはあらゆる人からバカにされる存在となる。

 

2.ワナビーとは「ライフスタイル」である

さて上段で成功した(夢を叶えた)ワナビーワナビーとは呼ばれないということを書いたが、では「成功する」のはいつだろうか。こればっかりは誰にもわからない。1秒後かもしれないし10年後かもしれない。そして、その人の人生においてワナビーだったことがどう影響を及ぼすかは誰にもわからない。ワナビーだったことで生活に困窮するかもしれないし、成功するかもしれないし別のことで成功するかもしれない。つまり、ワナビーとは、明確な夢・目標ではなく(渡邉美樹のことを「居酒屋ワナビー」とは言わず、佐川でバイトしてたことは「努力」として扱っている人がほとんどだろう)、非モテゴスロリなどといった「文化的なトライブ(部族)」ではなく「今婚活してるんだよね~」とか「最近ダイエットしてるんだよね~」といった『ライフスタイル』のようなものなのだ。「ダイエットしてるんだよね~」という友人に「ダイエットする意味がわからない」とか「ダイエットの仕方が間違っている」とか言うのはまず野暮だし、その人と喧嘩する覚悟が必要だろう。同様に、たまにワナビーの「成功するための努力の質」みたいなことを云々するのもだれがどんな形で成功するかわからない以上あまり意味がある話ではなく「黙ってろ」という話になるだろう。

 

3.それでもワナビーをバカにしないほうが良い理由

さてまとめてみよう。ワナビーというのは①人から羨ましがられるような職業を目指し
かつ、②それに失敗している人のことを指す。「失敗していること」が定義の中に含まれているため、いわゆるマウンティングのようなことに極めて弱い。そして、ワナビーが「成功したワナビー」にいつなるのかということは誰にもわからず、いわゆる「ライフスタイル」のようなものなのでそれに対してツッコミを入れること自体が「野暮」ということである。それではワナビーをバカにしないほうが良い理由とはなんだろうか。まず、ワナビーはいつ成功したワナビーになるかわからないというのが一点。例えばだが、手塚治虫がマンガ家になりたいといった時に「え~手塚のやつマンガ家ワナビーだぜ~」みたいなことを言っていた人間が当時いたら(いたと思うけど)、そいつは「アホ」だろう。だが、私たちが「マンガの神様になんてこというんだ!」と思うのは、私たちが後年の手塚治虫の業績を知っているからに過ぎない。つまりワナビーをバカにするということは「イチローを見いだせなかった土井正三」「韓信を登用しなかった項羽」的に後世の人間から笑われるリスクを負っていることは覚悟しておいた方が良い。

そして、「ワナビーであること」はライフスタイルである以上、人生にどんな影響をあたえることになるのか誰にもわからないということだ。実際、私も飲み会などで毎回「いいワナビーですね~」といわれるぐらいにはワナビッていた(こじらせていた)のだが、結果なんだかんだあってその後も無事に生きているし、何なら年収なども大幅にアップしていたりしていなかったりしているわけで、そこにワナビーだったことがどれぐらい影響を与えているかはわからない。そしてそういったどうなるかわからない類ものに対して先に価値判断することって、怖いことだと私は思う。

「あいのりはヤオ(※八百長)だった」スレはまだか

我々のようなひねくれたアラフォーおっさん(アラフォーだからひねくれているわけではなく元からひねくれている)にとっての3大禁忌目録、3大ヘイト番組といえば『あいのり』『グータンヌーボ』『恋するハニカミ! 』であることは論を待たないわけだが、2020年にして『あいのり』である。

『あいのり』がまだ放送中だということを読者諸賢はご存じだろうか。

『あいのり : Asian Jouney』⇒『あいのり:Asian journey SEASON2』⇒『あいのり : African Journey』としてNetflix/フジテレビオンデマンドで配信されている*1。そして、この放送形式が極めて番組にフィットしているのだ。

  • 『あいのり』は親切設計だ

順を追って説明しよう。

そもそも私が『あいのり』という番組を「再発見」したのは2018年の終わりごろだったと思う。深夜をまわり、買ってきたワインも空け、ハイボールを開けようとしていたころ。そんな時間帯、何の気なしにつけたテレビにいきなり飛び込んできたのは「言ってみろや、貴様!」と叫ぶ反社もとい、でっぱりん*2であった(EPISODE #6参照)。何のことかわからないところだが、あいのりは極めて親切、テロップで「誰が/何を」しゃべっているのか極めて丁寧に解説してくれる。かつ、ベッキーいとうあさこらが女子会と称して丁寧な解説までしてくれる。そしてVTRの折々に挟み込まれる人物相関図。そしてもう、この手のリアリティー番組のデファクトスタンダードと呼んでもいい番組フォーマット。『あいのり』は極めて親切設計なのだ。なんならテレビつけっぱなしでちょっとコンビニ行ってきてもいいし、ハイボール飲んでもいい。なんならNetflixからしばらく見ないでおいて「数週間ぶり」「数カ月ぶり」に見てもいい。基本同じストーリーラインだからその前の展開を全部忘れてても「ま、いっか」と済ませられるぐらいの番組。『ブレイキング・バッド』や『ハウス・オブ・カード 野望の階段』だったらこうはいかない。「安全に痛い」どころではない「無痛番組」。それが『あいのり』である。だから深夜とか、飲みながらNetflixでみるのにとても都合がいい。

しかも、今回のNetflix版から「脚本家」が変わったせいか、さらに丁寧な構成となっており、なんと「1か国に1回告白が行われる」というシステムに変更され、入国⇒新メンバー加入⇒旅・抗争・恋愛⇒告白⇒次の国へというストーリーラインがより明確になり「はい、ここ恋愛するところですよ」「ここ、旅してますよ」「ここ、貧困について考えてますよ」「はい、ここで告白しますよ(ご丁寧に毎回ドローンで空撮する)」というのが非常に明確で親切設計なのだ。

さて「脚本家」である。「『あいのり』はやらせだ」というのはこの番組に対して常につきまとう批判であることは間違いない。が、正直、今回の『あいのり』はそんな批判がダサいと思えるほどストーリーラインが作りこまれている。なんせ、真実の愛を探しに行っているはずが、日本についた途端に破局報告しちゃってんだから。今回、往年の江角マキコ久本雅美オセロ中島のような「恋愛マスター」の地位に番組内についているのはベッキーである。まず、この時点で半笑いである。全員にゲスの極みの顔がちらつくだろう。どれだけ感動的な脚本と演出による告白シーンとベッキーによる解説があっても「でもセンテンススプリングだしなぁ…」とほとんどの人たちは思う。そもそも、どれだけ川北麻衣子が泣こうが「アスカと裕ちゃん*3もう破局しとんじゃん」「でっぱりん昼キャバに勤めてんじゃん」というのがスマホで検索すればすぐ出てくる。地上波放送とちがっていつ見てもいいからこそ、すぐ検索するし、また今回の参加者はそういうのをよくSNSなどで「報告」しているのだ。ストーリーの大枠が固定化され、わかりやすくなった一方で参加者たちは「いやー脚本上むりやりくっついてただけなんすわ」「スタッフに無理やり言われて告白しましたわ」というのがわかるぐらいすぐ破局している。ケーフェイどころの話ではない。参加者全員ミスター高橋かっていう。

というか、番組のスタッフはもしかしたら自分たちの番組が「やらせ」だとか半笑いでみられているなんてことは百も承知なんじゃないだろうか。そう考えるとワクワクしないだろうか。ベッキーの寒々しい恋愛論も、参加者のSNSも、百も承知の『あいのり』。Netflixで常にツッコミ待ちである。面白くないはずがない。

  • あいのりはヤオだった

だが、ここで疑問が残る。「脚本家」とは誰なのだろうか。でっぱりんではないだろうし、ベッキーでもないはずだ。ではスタッフなのだろうか。私はそうではないと思う。

こちらを見てほしい。

sports3.5ch.net

ブッカー ミートくん
リング内外の筋書きを書くブッカーはミートくんであり、全超人軍団を裏で統括している。悪魔超人界の首領(ということになっている)サタンや、5大邪悪神(本当は神でもなんでもなく、顔だけ星出身の顔だけ星人)もミートくん支配下にあり、そういう意味ではミートくんこそが超人界の神と言える。ミートくんの書くブックはリング内外共に秀逸で、多くの超人プロレスファンが熱狂し、第一次超人プロレスブームを築くことに成功した。試合では自らがセコンドに付くことも多く、選手がまずいムーブ(動き)をすると、フォローを加えて試合の流れを修正したりもする。また、キン肉星王位争奪戦では自分がリングに上がっておいしいブックを消化したため、レスラー達から顰蹙を買ったりもしたが、絶対の権力を持つミートくんに誰も抗議することはできなかった。

https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E8%82%89%E3%83%9E%E3%83%B3

キン肉マンの勝敗は全てミートくんが決めていた」という衝撃の事実

私は『あいのり』におけるブッカーはいとうあさこ(初期は加藤晴彦)だとにらんでいる。

「たかの有給休暇ギミックはいとうあさこの指示」

ベッキー恋愛論は全ていとうあさこの台本を棒読み」

「ウェディングの早期離脱はまずいムーブがいろうあさこの逆鱗に触れたため」

「でっぱりん昼キャバ暴露はいとうあさこの制裁」

シャイボーイ×かすがはガチ」などなど…。

そんなスレッドがいつか立てられることを私は切望している。

(とか書いてたらAfrican Journeyではいとうあさこがいなくなっているっぽい。ブッカーなしで大丈夫か)

キン肉マン 70 (ジャンプコミックス)

キン肉マン 70 (ジャンプコミックス)

 

 

*1:かなり遅れて地上波でも放送中

*2:っていう登場人物がいるんですよ

*3:っていうのがいるんですよ

社畜なら読んで損はない『サラリーマン漫画の戦後史』と「能力」について

もうだいぶ前の本ですが図書館で借りて読みました。

かなり面白かったです。

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y)

サラリーマン漫画の戦後史 (新書y)

 

この本によれば、日本のサラリーマン漫画の多くには「源氏の血」が流れているのだといいます。

「源氏の血」とは筆者の造語ですが、「会社家族主義」や「人柄主義」を謳った源氏鶏太の小説を源流とする作風で、要はまじめで誠実。仕事に励む主人公とそれを温かく見守る上司や同僚という「家族」としての会社の側面を勧善懲悪的に描く、いわば最大公約数としてのサラリーマン像のことです。

日本のサラリーマンを取り上げた漫画の多くにはある時点まで「源氏の血」が流れており、その到達点が「島耕作」シリーズだというのが本書の最初から前半部分。終戦から高度成長を経てバブルへとその時々の作品を取り上げ、鮮やかに語っていくその手法はかなり面白かったです(1作品につき数ページで通勤電車などで読みやすいというのも社畜的にポイント高し)。

で、バブル崩壊を経てサラリーマン神話が次々と解体されていく中で源氏鶏太の存在も今や忘れ去られ、漫画が描くサラリーマン像も最大公約数的なものからそれぞれ個別の、最小公約数的な存在へと至った…。

これがこの本のものすごくざっくりとした内容となります。

ですが、読み終わった後に疑問に思ったことが一つあります。

それは、「源氏の血」が「家族主義」で「人柄主義」だとしたら、その対立項は「能力主義」ではないのでしょうか。つまり、誠実さや勤勉さではない「実力」によって評価されるサラリーマン像です。実際、この本では『エンゼルバンク』のような能力主義的漫画も取り上げているわけですから。

ところが、この本ではそういった構成にはなっていません。

それは何でかというのを考えたんですが、「能力主義」について思い至った瞬間に新たな疑問が湧いてきます。

そもそも会社における「能力」とは何なのか、と。

私たちは会社生活をしていくうえで必要な客観的な「能力」が何らかあり、『ドラゴンボール』のスカウターよろしくその能力を測る指標があるという前提のもとで、毎日仕事をしています。では、サラリーマンにとっての戦闘力とは一体どんなものなんでしょうか。

「●●さんて仕事できるよね」と言った時に、それは、会議を仕切る能力なのか、社内の情報に精通しているのか、事務処理能力なのか…何を評しているのか全く分かりません。もちろん、そう評した人間にとっては何らかの判断基準があると思うのですが、「人柄主義」における「誠実さ」以上に「能力主義」の評価基準というのは不明確になってしまいます。

  • 「キャラクター」と能力

で、ずーっと考えたわけですが、はたと思いついたのが、それって「キャラクター」なんではないかと。

要するに私たちが「能力」と呼んでいるのは「キャラ立ちしてそれを周囲に認めさせる能力」あるいは「周囲が期待するキャラを演じる能力」なのではないかと。

「人柄」という全人格的なものではなく「キャラ」という着脱可能なもの。

キラキラ女子、体育会系、オタク系ってだけではなく、飲み会好き、ゴルフ/麻雀好き、上司へのおべっか大好きなどなど…。

 

それを場によって使い分けて、周りの人に自分の「キャラ」を認めてもらう。

もちろん会議をしっかり回したり、書類作ったりとかっていう能力もあるんですが、それらは「キャラ」が周囲に認められて始めて評価される。

ここで問題になるのが、その会社によって、フィットしやすいキャラが違うということです。よく企業の人事とかが語る社風というのも、

「どんなキャラがフィットしやすいのか」ということを考えると非常にしっくりきます。

「社長の言うことは絶対服従、昼飯も全員絶対一緒のムラ会社」とか、

「個人商店の集まりみたいな、お互い一切干渉しない会社」とか、

「飲み会/ゴルフ大好き!とにかく参加しないやつは非国民会社」など、

会社によって演じるべきキャラが違うわけです。

で、この社風というのはどれだけ企業研究してみてもわからない。

新卒社員向けのプレゼンにも採用ホームページにも、

「ウチの会社は喫煙室で密談しまくりだからタバコ吸えないと厳しいですよ」

みたいなことは絶対書いてないから、実際に入社してみないとわからない。

会社から求められるキャラと「本当の自分」との乖離。

そんなところが、2010年代の社畜にとっての一番厳しい現実なのかもしれません。

駅のホームにて。

駅のホームにて。

同行していた人たちと京都の話になった。

京都出身だという女性から京都の名所の話を聞いた。曰く下鴨神社、曰く上加茂神社、曰く紀香とは違う などなど。

一緒にいたライターの人が藤原ヒロシ森見登美彦の話をしていた。

その人は年代的に俺の少し上ぐらいの人で、サブカルに詳しい人らしく、『太陽の塔』に出てくる「まなみ号」の話をしていた。まなみ号というのは言うまでもなく(?)本上まなみなわけで、本上まなみと言えばANA 夏の沖縄なわけで、『LIFE』なわけで、あふれでる想い出は戻れない海にとけてるわけだ。

『MG4』といえば自分が考える限り究極のアルバムのうちの一枚なんだけど、

MONDO GROSSOが14年ぶりのアルバムを発売した。

もう1年ぶりぐらいに仕事帰りにタワレコ行ってCD買った。

CDフラゲとか言ってたのもいつ以来だろう。

てか、CDって。

それぐらい、MONDO GROSSOという名前はたぶん特別なんだ。

CD再生する。

「TIME」で聞こえてくるボーカルはbirdでbirdの近作「Lush」っぽい感じかと思ったら、何度も聞いてくると良さがわかってくる感じの良曲。MONDO GROSSOでありながら、MONDO GROSSOじゃないっていうこのアルバムの1曲目にふさわしい感じ。

MONDO GROSSOに何を求めるかっていうのは結構人によって違うと思うけど、『MG4』的な要素と『NEXT WAVE』的な要素とソロ『The One』的な要素がそれぞれ味わえる、曲ごとにイメージが全然違うので、どの曲が一番好きかっていうのは結構人によって分かれる部分だと思う。

これは『MG4』や『NEXT WAVE』がアルバムごとに一貫したイメージを提示していたのとは好対照だと思う。で、自分が好きなのは一番『MG4』っぽい「ラビリンス」と、ちょっと「光」や「Our Song」っぽい「ERASER」かなと思う。

それはともかく、14年て。

自分も全く変わってしまったんだけど、まさかMONDO GROSSOの新曲が聞けるとは。つまり、俺はとりあえず元気ってことです。