「あいのりはヤオ(※八百長)だった」スレはまだか
我々のようなひねくれたアラフォーおっさん(アラフォーだからひねくれているわけではなく元からひねくれている)にとっての3大禁忌目録、3大ヘイト番組といえば『あいのり』『グータンヌーボ』『恋するハニカミ! 』であることは論を待たないわけだが、2020年にして『あいのり』である。
『あいのり』がまだ放送中だということを読者諸賢はご存じだろうか。
『あいのり : Asian Jouney』⇒『あいのり:Asian journey SEASON2』⇒『あいのり : African Journey』としてNetflix/フジテレビオンデマンドで配信されている*1。そして、この放送形式が極めて番組にフィットしているのだ。
- 『あいのり』は親切設計だ
順を追って説明しよう。
そもそも私が『あいのり』という番組を「再発見」したのは2018年の終わりごろだったと思う。深夜をまわり、買ってきたワインも空け、ハイボールを開けようとしていたころ。そんな時間帯、何の気なしにつけたテレビにいきなり飛び込んできたのは「言ってみろや、貴様!」と叫ぶ反社もとい、でっぱりん*2であった(EPISODE #6参照)。何のことかわからないところだが、あいのりは極めて親切、テロップで「誰が/何を」しゃべっているのか極めて丁寧に解説してくれる。かつ、ベッキーやいとうあさこらが女子会と称して丁寧な解説までしてくれる。そしてVTRの折々に挟み込まれる人物相関図。そしてもう、この手のリアリティー番組のデファクトスタンダードと呼んでもいい番組フォーマット。『あいのり』は極めて親切設計なのだ。なんならテレビつけっぱなしでちょっとコンビニ行ってきてもいいし、ハイボール飲んでもいい。なんならNetflixだからしばらく見ないでおいて「数週間ぶり」「数カ月ぶり」に見てもいい。基本同じストーリーラインだからその前の展開を全部忘れてても「ま、いっか」と済ませられるぐらいの番組。『ブレイキング・バッド』や『ハウス・オブ・カード 野望の階段』だったらこうはいかない。「安全に痛い」どころではない「無痛番組」。それが『あいのり』である。だから深夜とか、飲みながらNetflixでみるのにとても都合がいい。
しかも、今回のNetflix版から「脚本家」が変わったせいか、さらに丁寧な構成となっており、なんと「1か国に1回告白が行われる」というシステムに変更され、入国⇒新メンバー加入⇒旅・抗争・恋愛⇒告白⇒次の国へというストーリーラインがより明確になり「はい、ここ恋愛するところですよ」「ここ、旅してますよ」「ここ、貧困について考えてますよ」「はい、ここで告白しますよ(ご丁寧に毎回ドローンで空撮する)」というのが非常に明確で親切設計なのだ。
- ラブワゴン全員ミスター高橋説
さて「脚本家」である。「『あいのり』はやらせだ」というのはこの番組に対して常につきまとう批判であることは間違いない。が、正直、今回の『あいのり』はそんな批判がダサいと思えるほどストーリーラインが作りこまれている。なんせ、真実の愛を探しに行っているはずが、日本についた途端に破局報告しちゃってんだから。今回、往年の江角マキコや久本雅美、オセロ中島のような「恋愛マスター」の地位に番組内についているのはベッキーである。まず、この時点で半笑いである。全員にゲスの極みの顔がちらつくだろう。どれだけ感動的な脚本と演出による告白シーンとベッキーによる解説があっても「でもセンテンススプリングだしなぁ…」とほとんどの人たちは思う。そもそも、どれだけ川北麻衣子が泣こうが「アスカと裕ちゃん*3もう破局しとんじゃん」「でっぱりん昼キャバに勤めてんじゃん」というのがスマホで検索すればすぐ出てくる。地上波放送とちがっていつ見てもいいからこそ、すぐ検索するし、また今回の参加者はそういうのをよくSNSなどで「報告」しているのだ。ストーリーの大枠が固定化され、わかりやすくなった一方で参加者たちは「いやー脚本上むりやりくっついてただけなんすわ」「スタッフに無理やり言われて告白しましたわ」というのがわかるぐらいすぐ破局している。ケーフェイどころの話ではない。参加者全員ミスター高橋かっていう。
というか、番組のスタッフはもしかしたら自分たちの番組が「やらせ」だとか半笑いでみられているなんてことは百も承知なんじゃないだろうか。そう考えるとワクワクしないだろうか。ベッキーの寒々しい恋愛論も、参加者のSNSも、百も承知の『あいのり』。Netflixで常にツッコミ待ちである。面白くないはずがない。
- あいのりはヤオだった
だが、ここで疑問が残る。「脚本家」とは誰なのだろうか。でっぱりんではないだろうし、ベッキーでもないはずだ。ではスタッフなのだろうか。私はそうではないと思う。
こちらを見てほしい。
ブッカー ミートくん
リング内外の筋書きを書くブッカーはミートくんであり、全超人軍団を裏で統括している。悪魔超人界の首領(ということになっている)サタンや、5大邪悪神(本当は神でもなんでもなく、顔だけ星出身の顔だけ星人)もミートくんの支配下にあり、そういう意味ではミートくんこそが超人界の神と言える。ミートくんの書くブックはリング内外共に秀逸で、多くの超人プロレスファンが熱狂し、第一次超人プロレスブームを築くことに成功した。試合では自らがセコンドに付くことも多く、選手がまずいムーブ(動き)をすると、フォローを加えて試合の流れを修正したりもする。また、キン肉星王位争奪戦では自分がリングに上がっておいしいブックを消化したため、レスラー達から顰蹙を買ったりもしたが、絶対の権力を持つミートくんに誰も抗議することはできなかった。https://ja.uncyclopedia.info/wiki/%E3%82%AD%E3%83%B3%E8%82%89%E3%83%9E%E3%83%B3
「キン肉マンの勝敗は全てミートくんが決めていた」という衝撃の事実。
私は『あいのり』におけるブッカーはいとうあさこ(初期は加藤晴彦)だとにらんでいる。
「たかの有給休暇ギミックはいとうあさこの指示」
「ウェディングの早期離脱はまずいムーブがいろうあさこの逆鱗に触れたため」
「でっぱりん昼キャバ暴露はいとうあさこの制裁」
「シャイボーイ×かすがはガチ」などなど…。
そんなスレッドがいつか立てられることを私は切望している。
(とか書いてたらAfrican Journeyではいとうあさこがいなくなっているっぽい。ブッカーなしで大丈夫か)
社畜なら読んで損はない『サラリーマン漫画の戦後史』と「能力」について
もうだいぶ前の本ですが図書館で借りて読みました。
かなり面白かったです。
この本によれば、日本のサラリーマン漫画の多くには「源氏の血」が流れているのだといいます。
「源氏の血」とは筆者の造語ですが、「会社家族主義」や「人柄主義」を謳った源氏鶏太の小説を源流とする作風で、要はまじめで誠実。仕事に励む主人公とそれを温かく見守る上司や同僚という「家族」としての会社の側面を勧善懲悪的に描く、いわば最大公約数としてのサラリーマン像のことです。
日本のサラリーマンを取り上げた漫画の多くにはある時点まで「源氏の血」が流れており、その到達点が「島耕作」シリーズだというのが本書の最初から前半部分。終戦から高度成長を経てバブルへとその時々の作品を取り上げ、鮮やかに語っていくその手法はかなり面白かったです(1作品につき数ページで通勤電車などで読みやすいというのも社畜的にポイント高し)。
で、バブル崩壊を経てサラリーマン神話が次々と解体されていく中で源氏鶏太の存在も今や忘れ去られ、漫画が描くサラリーマン像も最大公約数的なものからそれぞれ個別の、最小公約数的な存在へと至った…。
これがこの本のものすごくざっくりとした内容となります。
- 「人柄主義」と「能力主義」
ですが、読み終わった後に疑問に思ったことが一つあります。
それは、「源氏の血」が「家族主義」で「人柄主義」だとしたら、その対立項は「能力主義」ではないのでしょうか。つまり、誠実さや勤勉さではない「実力」によって評価されるサラリーマン像です。実際、この本では『エンゼルバンク』のような能力主義的漫画も取り上げているわけですから。
ところが、この本ではそういった構成にはなっていません。
それは何でかというのを考えたんですが、「能力主義」について思い至った瞬間に新たな疑問が湧いてきます。
そもそも会社における「能力」とは何なのか、と。
私たちは会社生活をしていくうえで必要な客観的な「能力」が何らかあり、『ドラゴンボール』のスカウターよろしくその能力を測る指標があるという前提のもとで、毎日仕事をしています。では、サラリーマンにとっての戦闘力とは一体どんなものなんでしょうか。
「●●さんて仕事できるよね」と言った時に、それは、会議を仕切る能力なのか、社内の情報に精通しているのか、事務処理能力なのか…何を評しているのか全く分かりません。もちろん、そう評した人間にとっては何らかの判断基準があると思うのですが、「人柄主義」における「誠実さ」以上に「能力主義」の評価基準というのは不明確になってしまいます。
- 「キャラクター」と能力
で、ずーっと考えたわけですが、はたと思いついたのが、それって「キャラクター」なんではないかと。
要するに私たちが「能力」と呼んでいるのは「キャラ立ちしてそれを周囲に認めさせる能力」あるいは「周囲が期待するキャラを演じる能力」なのではないかと。
「人柄」という全人格的なものではなく「キャラ」という着脱可能なもの。
キラキラ女子、体育会系、オタク系ってだけではなく、飲み会好き、ゴルフ/麻雀好き、上司へのおべっか大好きなどなど…。
それを場によって使い分けて、周りの人に自分の「キャラ」を認めてもらう。
もちろん会議をしっかり回したり、書類作ったりとかっていう能力もあるんですが、それらは「キャラ」が周囲に認められて始めて評価される。
ここで問題になるのが、その会社によって、フィットしやすいキャラが違うということです。よく企業の人事とかが語る社風というのも、
「どんなキャラがフィットしやすいのか」ということを考えると非常にしっくりきます。
「社長の言うことは絶対服従、昼飯も全員絶対一緒のムラ会社」とか、
「個人商店の集まりみたいな、お互い一切干渉しない会社」とか、
「飲み会/ゴルフ大好き!とにかく参加しないやつは非国民会社」など、
会社によって演じるべきキャラが違うわけです。
で、この社風というのはどれだけ企業研究してみてもわからない。
新卒社員向けのプレゼンにも採用ホームページにも、
「ウチの会社は喫煙室で密談しまくりだからタバコ吸えないと厳しいですよ」
みたいなことは絶対書いてないから、実際に入社してみないとわからない。
会社から求められるキャラと「本当の自分」との乖離。
そんなところが、2010年代の社畜にとっての一番厳しい現実なのかもしれません。
駅のホームにて。
駅のホームにて。
同行していた人たちと京都の話になった。
京都出身だという女性から京都の名所の話を聞いた。曰く下鴨神社、曰く上加茂神社、曰く紀香とは違う などなど。
一緒にいたライターの人が藤原ヒロシと森見登美彦の話をしていた。
その人は年代的に俺の少し上ぐらいの人で、サブカルに詳しい人らしく、『太陽の塔』に出てくる「まなみ号」の話をしていた。まなみ号というのは言うまでもなく(?)本上まなみなわけで、本上まなみと言えばANA 夏の沖縄なわけで、『LIFE』なわけで、あふれでる想い出は戻れない海にとけてるわけだ。
『MG4』といえば自分が考える限り究極のアルバムのうちの一枚なんだけど、
MONDO GROSSOが14年ぶりのアルバムを発売した。
もう1年ぶりぐらいに仕事帰りにタワレコ行ってCD買った。
CDフラゲとか言ってたのもいつ以来だろう。
てか、CDって。
それぐらい、MONDO GROSSOという名前はたぶん特別なんだ。
CD再生する。
「TIME」で聞こえてくるボーカルはbirdでbirdの近作「Lush」っぽい感じかと思ったら、何度も聞いてくると良さがわかってくる感じの良曲。MONDO GROSSOでありながら、MONDO GROSSOじゃないっていうこのアルバムの1曲目にふさわしい感じ。
MONDO GROSSOに何を求めるかっていうのは結構人によって違うと思うけど、『MG4』的な要素と『NEXT WAVE』的な要素とソロ『The One』的な要素がそれぞれ味わえる、曲ごとにイメージが全然違うので、どの曲が一番好きかっていうのは結構人によって分かれる部分だと思う。
これは『MG4』や『NEXT WAVE』がアルバムごとに一貫したイメージを提示していたのとは好対照だと思う。で、自分が好きなのは一番『MG4』っぽい「ラビリンス」と、ちょっと「光」や「Our Song」っぽい「ERASER」かなと思う。
それはともかく、14年て。
自分も全く変わってしまったんだけど、まさかMONDO GROSSOの新曲が聞けるとは。つまり、俺はとりあえず元気ってことです。
ブログ書くのは承認欲求か?『認められたい』を読んだ
DeNAの第三者委員会の報告書はまだ読んでいるのだが、シロクマ氏の単著は読み終わった。
※著者に献本いただきました。ありがとうございます。
どんな本なのかというと、マズローの欲求段階説(中学校の保健体育の授業とかで出てくるアレ)とコフートの自己愛の理論(この人のことは初めて知った)を2010年代的に適用した本だ。
では、具体的にどういうことかというと、以下の三点になる。
2:「認められたい」は成長する
3:「認められたい」は貯められない
1でマズローの欲求段階説、中学生の保健体育の授業の時にエロ系の授業を期待してたら三角形出てきて絶望のあの5段階の欲求のうち、承認欲求(誰かから認められたい)と所属欲求(どこかに所属したい)という2点にフォーカスすることでモデルを単純化したうえで、2でコフートの理論を緩用して「認められたい」気持ちはレベルアップしていく=若いうちに「認められたい」レベルが低いのはあり得ると筆者は考えている。
-
「認められたい」は貯められるのか、貯められないのか
で、この本のどこがポイントなのかというと、3の「認められたい」感情は貯められないという点にある。
要するに、筆者が考える承認欲求や所属欲求とはご飯と胃袋のようなもので、晩飯をいくら食べても翌朝にはお腹が減っているように、「認められたい」は増えたり減ったりするもの、いくらいっぱいになってもしばらくするとなくなってしまうものというように考えているようなのだ。
で、これはちょっとびっくりした。
なぜかというと、例えば、「Twiiterでなんかうまいこと言う」という行動で1ポイント「認められる」とする。で、同じく「ゲームでひとしきり遊ぶ」で5ポイント、「彼女作ってデートする」で10ポイント、「会社で出世する」で100ポイント「認められる」とする。「認められたい」が貯金のように貯められるとしたら、Twitterでなんか言ったりするのは承認として低レベルで「会社で出世する」を目指せということになる。
これは「認められる」行為自体にレベルの高低があり、認められることに飢えるのは低レベルの承認しか獲得できないから、という前提に立っている。要するにゲームばっかしてるやつはダメ、はてなでブクマ集めて喜んでるやつはダメという理屈だ。
だが、これが貯められないという話になると、「認められる」行為のレベルは大した問題ではなく、問題はその運用方法にある、ということになる。
つまり、私の「認められたい」のキャパが100あったとしたら、今すぐ軽くCIV6や信長の野望 創造(withPK)をやって満たすのか、友達と飲みに行ってウサを晴らすのか、仕事に打ち込むのか。当然、仕事で出世するなんてのはハイリスクハイリターンだから、今は飲みにでも行くかといった日々の「認められたい」のマネジメントをどうしていくか。いかに簡易な「認められたい」で満たされつつ自分自身の「認められたい」のキャパを増やしていくかのほうが問題、ということになる。
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「認められたい」の今日的な問題
これは結構今日的な問題で、「認められたい」のマネジメントを失敗することでそれが問題行動につながることが多いのだ。筆者はそこで引きこもりのような問題を想定しているようだが、それ以上に、「SNSで●●●(自主規制)しちゃう奴」とか「高知でトマトつくっちゃっうあの人」とか「ライターのはずなのに●●●(自主規制)しちゃう奴」みたいなことになっちゃうことがリスクだと私は思った。
そう、これがこの本の一番重要なところなのだと思うのだが、これまでまとめてきた「認められたい」はそのマネジメントが大切だということは、承認欲求や所属欲求は「あっても良い」「あって当然」なものであり、例えば「いい大学に行きたいという所属欲求のために勉強を頑張っていい大学入った」というような「認められたい」感情をうまくマネジメントして結果を出すことは称賛されるべきだという、近年のネット界隈ではとかく悪者にされがちな、「承認欲求・所属欲求」の再評価を行ったことにある。
正直、では「認められたい」をマネジメントするためにどうすればいいかということに対してこの本が示している結論は弱い。だが、より高いレベルの「認められたい」をムリに求めるのではなく、「認められたい」をいかにマネジメントするかのほうが大切という本書の考えは基本的には支持できるし、私は面白いと思った。
だって、こうして久しぶりにブログ書くこともマネジメントなんだもん。
神山健治版サイボーグ009(009 RE:CYBORG)とネットの正義
その昔(つっても3年前だけど)、神山健治版サイボーグ009(009 RE:CYBORG)というのがあった。
とにかくアクションシーンと音楽が秀逸な映画だったというのが最初の印象だったが、何度か見直すうちに印象も結構変わり、先日めでたくマンガ版が完結したこともあり、最近またこの作品について考えることがあったのでエントリを書こうと思う(ちなみに石ノ森章太郎の原作はほとんど読んだことはない)。

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●どんな話だったのか
今さらなんでこんな事を書くのかというと、この作品の「敵」の概念が割と示唆的だったからだ。
その話に入る前に、ストーリーをかいつまんで説明する。
石ノ森章太郎の代表作『サイボーグ009』のリメイク作品である009 RE:CYBORG。
映画『009 RE:CYBORG』(サイボーグ009)予告編01
作品の舞台は2013年。
この世界でのサイボーグ009たちは全員散り散りになっていて、祖国の諜報機関に所属するもの、考古学者になったり自分で商売を始めるもの、ギルモア財団(主人公たちの基地みたいな存在)に残るもの…そして、なぜかずっと高校3年間をループし続ける主人公・島村ジョーが六本木ヒルズに向かうところから話が始まる。
で、世界をゆるがす事件を経て彼らが再結集するというのが大まかな話なのだが、
この作品で登場する敵というのが良くわからない。
この作品で設定されている「敵」というのが、なんか悪役やボス的な人が出てくるわけではなく、
「人類は一度やり直さなくてはならない」という謎の「声」を聞いた人たちが敵なのだ。
彼の声を聴いた人たちが、テロやら核爆発やらなんやらを起こして「人類をやり直させ」ようとするのを止めるのがゼロゼロナンバーサイボーグたちだ。
●「世界を救う」という事に関して
いわゆるホームグロウン・テロやマンガ『ワールドイズマイン』のようなテロリストを、009達が止める。
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というのがこの作品のめちゃくちゃおおざっぱなストーリーなのだが、途中(というか序盤で)話がよくわからなくなる。
なぜって、主人公である島村ジョーが「彼の声を聴いた」と言いだすからだ。
島村ジョーが「彼の声を聴いた」のだとすると、彼が信じる正義とは何か。
結局、彼らがなそうとしていることも形を変えた「人類やり直し」に過ぎないのではないかと思えてしまうのだ。
そもそも、高層ビルをテロで爆破するというのも、その実行犯にとってはそれが正義だと確信して実行しているわけだ。
実際、自分が聴いた「彼の声」について島村ジョーはこう答えている。
いつ、どこでというようなはっきりした自覚はないんです
ただ気が付いた時には…
自分の頭の中に「彼の声」に従うことが「正義」なんだという強いイメージがあったのです
普通に考えれば怖すぎる主人公である。
アホか、と。
だが、言い方を変えれば、島村ジョーことテロリスト未遂犯にとっては、自らの正義を全く疑っておらず、自らを世界を変革した英雄だと信じて疑っていない。
そんな人間と対話することができるのだろうか。
前作である『東のエデン』では、とりあえず「日本はこのままだとマズい」という根本の問題意識は作中で共有されており、そのためにどうするのか、「ジョニーをちょんぎる」のか「国家規模の〝ダイエット〟(by物部 大樹)」なのか、方法論の違いという事でストーリーは進んでいく。だからこそ、彼らの間では対話が成り立つ。
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だが、『009 RE:CYBORG』の作品世界ではそれすらもなくなり、誰がどうして「人類をやり直す」のか、なんで「人類をやり直す」のにドバイに爆弾を落とさないといけないのか、さっぱりわからないのだ。
つまり、自分には全く意味不明の「正義らしきもの」がぶつかり合う世界。
そして、お互いの会話は不可能。
それが神山版・009の作品世界なのだ。
●「彼の声」とは結局なんだったのか
作品内では、最初「彼の声」とはテロリストになるトリガーみたいなものだとおもわれていたものが、実は「神」なのではないかという仮説が中盤あたりで示されていき、さらにわけわかんない方向に向かうワケなのだが、いや、そんな大それた話かと。
「彼の声」聞いたやつなんてそこらじゅうにいるじゃないかと。
つまり、「自らの内なる『正義』に目覚めてしまった人たち」だ。
彼らはある時はネットの論客として登場し、またあるときはコメント欄の「評論家」として活躍する。彼らはある種の自己顕示欲過剰であり、自分の「正義」のために「悪」を攻撃する。
Yahoo!ニュースやBlogosのコメント欄を見てみれば、twitterやfacebookを見てみれば、ありとあらゆるところで「正義らしきもの」がぶつかり合ってはいないだろうか。
具体的な事例を挙げればいくつも心当たりがあるだろう(事例は挙げないけど)。
ネットの世界はバカ探しゲームだ。
彼らは自分の内なる行動規範(=神)に基づいて「バカ」を探し出し、「彼はバカだ」と大声で叫ぶ。実際、彼ら・彼女らにとってはその「バカ」は「彼の声を聴いたテロリスト」以外の何物でもないだろう。
だが、そんな彼らこそが他の人間にとってみれば「彼の声を聴いたテロリスト」という事になる。
現に、ある人たちを攻撃する「良識派」の人たちが実際は別の眉をひそめる行動をしていた、というのはネットの世界ではよくあることだ。
そして彼らと会話する前提条件がそもそも成り立たない。
つまり、あなたのディスプレイ越しにみるあの書き込みは「彼の声」によるものかもしれないのだ。
では、どうするべきか。
他者や異なる意見をすべて拒絶すべきか。
バカ探しゲームをずっと続けるべきか。
「終わらせなければ、始まらない」のだろうか。
※川井憲次のサントラもいいので是非。
「クラウドワークスで月収20万」選ばれしライター像について考えてみた
続き。
今日、「それ見たことか!」的な記事が上がっていた。
クラウドワークスで平均月収が20万円を超えているのはわずか111名、その内訳でみると、エンジニアが38%、デザイナーが27%となっており、ライター職は3.6%。
111人の3.6%だから約4人。ドラクエ3の勇者ご一行と同じ人数であるから、まさに世界を救う選ばれしライター達である。
そんな選ばれしライター達について、当該のエントリ内に気になる一文があった。
月収の高い人が増えてくればクラウドワークスで自分が取ったクラウドワークスの仕事を回すというロックな事案が増えそう。あれ? 元請けが下請けにマージン抜いて丸投げするアレじゃないですか? まじかよ〜。
クラウドワークスで月収20万超え、わずか111名。働き方革命の未来はどこにある? - GoTheDistance より引用
まず、考えたいのは狭義のライティング業務という仕事は実はクリエイティブでもなんでもなく、工場の機械と一緒だという事だ*1。
ライターが一日に生産できる記事の数量には限界がある。
どれだけ頑張っても1日1本書くのにかかる記事を1日に100本書けるようにはならない。
トヨタやソニーの工場で一日に生産できる車やPS4の数は生産設備に依存するのと同じなように、ライターという仕事のライティング業務の生産設備が自分自身なだけだ。
だから、多くの先輩ライターが「健康に気を付けろ=生産設備のメンテナンスをしっかりしろ」というアドバイスをくれるわけだ(大変ありがたい)。
だが、それでも規模を拡大しようと思ったら、どうするか。
方法は2つある。
・生産設備を増強する
・生産物の単価を上げる
この2つである。
生産設備を増強するというのは要するにクラウドワークスで取った案件をクラウドワークスでやらせるという、さっき書いてあったことだ。
営業力があり、大手顧客から直接案件を取れるのであれば、自分は単価の高い案件に注力し、他の案件はクラウドワークスに回すという、胴元ビジネスが成り立つ。
これは割と誰でもかんがえることなので、クラウドワークス上がりの人がやらなくとも、編プロの人で普通にこの辺の事は考えているだろう。
で、もう一つの生産物の単価を上げるというのは、要するにより高度かつ上流の案件を取ってくるという事になる。
ニュースサイトやオウンドメディアの運営でも、ECサイトの更新でもなんでもいいんだが、顧客に入り込んでサイト企画のレベルから入り込み、実運営に関しては極限まで単純化した上でクラウドワークスに投げる、という仕組みを作る。
これだと、単純にクラウドワークスの市場価格と受注金額の差額分儲かる形になり、サイトが続く限り売り上げが立つのでかなりおいしい。
実際、クラウドワークス自体が「あれ、これ俺らが直接取りに行った方が良くね?」という感じでBPOビジネスをやっていることを決算説明資料で書いていることからもまぁ多分そういうことになるのだろう。
で、ここでポイントになるのはどちらの場合でも重要になるのは営業力だということだ。
つまり、
これまでよくあったカリスマ的なライター・編集者社長と弟子みたいな編プロでもなく、
今はやりの「ボクタチクリエイティブでノマドでコワーキングスペースですわ!」みたいな意識高い系編プロでもなく、
某OA機器販売商社的な「今日もテレアポしまくりますわ!ニューコールしてきますわ!!!」的な編プロが最強、
という当たり前かつ、つまらない結論になる。
冒頭の、勇者ロトご一行の話に戻ると、彼らに突き付けられているのは、今後売り上げを伸ばして行こうとしたら、どんな形で営業力をつけ、仕事を取ってくるか、という話なんだが、問題はそんな某人材系企業のような編プロはあんまりない(と思う)ことだ。
だからこそ、クラウドワークスが自分たちでBPOビジネスをやろうとしていて、インフラを整備しているというのは強みなわけで、
クラウドワークス社がブランディングみたいな話をしているうちはライター・編プロ的には非常にラッキーで、某クーポン購入サイトのように彼らの中に「光の一族」を見かけるようになった時が本格的にヤヴァイという事になる。
それにしても、「ライターデビューするためにはクラウドソーシングサイトで記事を書こう」みたいな「ご高説」をおっしゃる方は、まずこの決算短信を読んでからにしてくれ、と改めて願ってやまない次第である。
*1:もちろん、企画や取材など個人の裁量部分も大きいので、「ライター」という職種はそう単純には言いきれないが
新しいブログ始めました
今回、色々と思うところがあり、
婚活に関する情報を集約して別サイトに掲載することにしました。
konkatsu-researchcenter.hatenadiary.jp
昔、いろいろやってた頃の事を思い出しながらのんびり更新していければと考えております。
まだ立ち上げてから2週間ほどですが、是非ご覧いただけると幸いです。